ガラ・ダリ / Gala Dalí
ダリのミューズ兼マネージャー
概要
生年月日 | 1894年9月7日 |
死没月日 | 1982年7月10日 |
国籍 | スペイン |
活動 | モデル、マネジメント |
ムーブメント | シュルレアリスム |
配偶者 |
・ポール・エリュアール |
ガラ・ダリ(1894年9月7日-1982年7月10日)は、ポール・エリュアールの前妻。サルバドール・ダリの妻。一般的には「ガラ」という愛称で呼ばれている。彼女はミューズとして多くのシュルレアリストや芸術家にインスピレーションを与えた。
ガラは、実業家として、ダリのエージェント、マネジメントとして活躍。ダリが売れない頃に作品を宣伝したりダリの仕事全体の運営に気を配っていた。さらに、彼女は編集に卓越した才能を発揮し、「サルバドール・ダリ自伝」を驚異的なベストセラーに変えた。
ガラはダリの作品のモデルとしてよく登場し、たとえば「ポルトリガトの聖母」のような聖母マリアの役割として描かれる。ダリが描いたガラの絵は非常に愛の深いもので、美術史においてこれほど中年女性への憧れを熱烈に表現した芸術家はいなかったといえるだろう。
略歴
ガラは、ロシア帝国のカザンの知識階級の家庭で生まれた。本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ。幼なじみには詩人のマリーナ・ツベターエワがいる。モスクワに住んでいた1915年ごろは、学校の教師をしていたという。
1912年、結核の治療のため、スイスのダボス近郊にあるクラヴァデルの療養所に送られる。水で詩人のポール・エリュアールと出会いに恋に落ちる。2人は17歳だった。
第一世界大戦がはじまると1916年に、彼女はポール・エリュアールと再会するためにロシアからパリへ移住する。一年後に結婚し、翌1918年には2人のあいだに娘が生まれたが、ガラは母親であることを嫌い、子供を虐待し、育児放棄をした。
エリュアールとガラはシュルレアリスム運動に参加し、ガラはエリュアール、ルイス・アラゴン、マックス・エルスント、アンドレ・ブルトンなどの多くの画家や詩人にインスピレーションを与えた。
しかし、ブルトンはのちに彼女を嫌い、芸術家に悪影響を与えるその性格を批判。ガラは1924年から27年にかけて、夫であるエリュアールだけでなくマックス・エルスントとも不倫をしていた。
1929年の8月、エリュアールとガラはスペインの若いシュルレアリスム画家のサルバドール・ダリを訪ねる。ガラとダリは10歳以上年が離れていたが、すぐに打ち解けることができた。女性器恐怖症と言われるダリは、まだ童貞だったと言われている。
1929年、子宮筋腫が見つかり、1936年に子宮摘出術を受けた。
1930年代初頭、ダリは「私が絵を描くのは、ほとんどガラ、あなたの血でできている」として、自分の絵に自分と彼女の名前を記すようになった。
1929年に同棲をはじめ、1932年にエリュアールと離婚したあと1934年に入籍。しかし親の反対もあって結婚式は挙げていなかった。しかし、ダリと結婚したあともエリュアールとの関係は続いた。
両親が他界した後、1958年に正式にモントレジックのピレニア村でカトリック形式で結婚式を挙げる。ガラには結婚歴があり、彼女は信者(カトリックではなく、正教徒)であったため、ローマ教皇から特別な免除を受ける必要があった。
1968年にダリはガラのためにプボル城を購入する。ガラは1971年から1980年までプボル城で毎年夏を別荘として利用する。ダリはガラからプボル城への無許可の入場を拒否され、事前にガラから文書で正式な許可を得るという手はずを取らなければならなかった。
ガラは、性欲が強く、晩年になっても彼女の性欲はおさまらず次々と不倫していた。しかし、ダリはカンダウリズムの嗜好を持っていたので(自分の妻の裸体を第三者に晒したり、他人と性行為をするのを見て興奮する性的嗜好)、ガラとの間にトラブルはほとんどなかった。前夫であるポール・エリュアールともずっと関係を維持していたのもダリのカンダウリズム嗜好が根底にあるという。
若い芸術家に好意を持ち、老後は自分と関わりのある人々に高価な贈り物をすることが多かった。
1970年代後半、ガラはアメリカのロックシンガーのジェフ・フェンホルト(以前はジーザス・クライスト・スーパースターのボーカル)と不倫していたという。フェンホルトはアメリカにおけるダリのマネジメントを務めており、ダリの作品をアリス・クーパーに販売もしていた。
ガラは1982年6月10日、ポルトリガトで87歳で死去。死の数ヶ月前、ガラは重度のインフルエンザにかかり、その後、認知症の兆候が現れ始めた。
ダリがガラのために購入したジローナのプボル城に埋葬された。1996年ガラが住んでいたプボル城はガラ・ダリ城美術館として一般公開された。
ガラが亡くなるとダリは「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆し、プボル城に引きこもるようになり、その翌年を最後に生涯、絵を描くこともなくなった。
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