フェリックス・ヴァロットン / Félix Vallotton
近代木版画の発展に貢献したナビ派画家
概要
生年月日 | 1865年12月28日 |
死没月日 | 1925年12月29日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 画家、版画家 |
ムーブメント | ナビ派 |
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フェリックス・ヴァロットン(1865年12月28日-1925年12月29日)はスイス・フランスの画家、版画家。ナビ派。近代木版画の発展における重要人物をみなされている。
1890年代にヴァロットンが制作した多くの木版画は革新的なもので、芸術媒体としての木版画の復興を果たした引導者としての地位を確立。平面性や際立った輪郭線、グラデーションのない白と黒のコントラストの木版画は、ムンク、オーブリー・ビアズリーなどに影響を与えた。
絵画においてはナビ派と密接な交流を持ち、友情は生涯続いた。木版画で培った技術を絵画に反映させた作品を多数制作する。ナビ派解散以後は、画面に冷たさを伴う独自の写実的絵画を発展させ、1920年代の新即物主義の先駆者となった。
重要ポイント
- 近代木版画に革命を起こした
- 絵画ではナビ派として活動
- 新即物主義の先駆者
略歴
若齢期
ヴァロットンはスイスのローザンヌの保守的なミドルクラスの家庭で生まれ、州大学に入学し、1882年に古典学の修士を得て卒業。同年、パリへ移り、ジュリアン・アカデミーでジュール・ジョゼフ・ルフェーブルやギュスターヴ・ブーランジェのもとで学ぶ。
また、ルーブル美術館で多くの時間を過ごし、ハンス・ホルバイン、アルブレヒト・デューラー、ドミニク・アングルといった巨匠たちから影響を受け、生涯を通してヴァロットンの模範となった。
ヴァロットンの初期の絵画、おもに肖像画は、アカデミーの伝統に基づいたものである。1885年、20歳のとき、ヴァロットンはアングル風の《ウルデンバッハ氏の肖像》を制作。また同じく最初の自画像を制作。それらは1886年にパリ・サロンに出品して高い評価を得た。
木版画革命
次の10年で、ヴァロットンは絵を描き、また美術批評を書き、たくさんの版画を制作した。1891年彼は最初の木版画、ポール・ヴァレリーの肖像画を制作した。
1890年代にヴァロットンが制作した多くの木版画は革新的なもので、芸術媒体としての木版画の復興を果たした引導者としての地位を確立した。西洋世界では、凸版印刷は、商業用の木口木版の形式で、描いた絵や写真を再現する手段として、長い間おもに利用されてきた。
ヴァロットンの木彫りスタイルは、未分化の黒い大部分と無変調の白い部分のコントラストが革新的だった。ヴァロットンは線と平面性を強調し、伝統的に陰影で生成されるグラデーションや造形を消失させた。
彼は後期印象派や象徴主義、特に日本の木版画から影響を受けている。浮世絵プリントの巨大な展示が1890年にエコール・デ・ボザールで開催され、ヴァロットンをはじめ彼の時代の多くの芸術家でジャポニズムの熱狂者立った人達は、浮世絵を集めた。
ヴァロットンの木版画の主題は、屋内風景、入浴する女性、顔、混雑した通り、デモの風景(特に警察官がアナーキストに突撃しているところ)などである。
ヴァロットンはいつも個々よりもむしろタイプを描き、強い感情表現を避け、皮肉なユーモアというわけではないが、とげとげしさと理知をグラフィックに溶け込ませた。こうして、ヴァロットンのグラフィック・アートは最高潮の発展を遂げた。
1898年にRevue Blancheから出版された10点のシリーズは、男女間の緊張を扱ったものである。ヴァロットンの木版画は、ヨーロッパやアメリカなど広い地域で定期刊行物や書籍などで掲載された。また、白と黒のコントラストが強い平面的なヴァロットンの木版画はムンク、オーブリー・ビアズリー、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーにも影響を与えた。
ナビ派との交流
1892年に彼は、ピエール・ボナール、モーリス・ドニ、ケル・グザヴィエ・ルーセル、エドゥアール・ヴュイヤールなどのナビ派画家たちと交流する。彼らとは生涯の友好関係を築いた。ナビ派的な絵画作品の代表は、1892年から1893年にかけて制作した《夏の夜の湯浴場》である。現在チューリヒ美術館が所蔵している。また、象徴主義的な絵画も制作しており、代表作は1894年から1895年にかけて制作した《月光》である。どちらの絵画も木版画で採用した技術を反映させており、平面的ではっきりとした輪郭線が特徴の絵となっている。
ポストナビ 新即物主義の先駆
1899年、ヴァロットンはガブリエル・ロドリゲス・エンリケスと結婚。彼女は裕福な若い未亡人で3人の子どもがいた。1900年にヴァロットンはフランス市民権を獲得。
1899年ころまでに、彼の版画制作活動は絵画制作に集中するにつれて減少していき、芸術のメインストリームとは独立して、整然と辛辣な写実主義の方向へ向かっていった。1907年の肖像画《ガートルード・スタイン》は、ピカソの前年の肖像画に反応して描いたもので、『アリス・B・トクラス自伝』で、スタインはヴァロットンが描いた肖像画について、かなり詳細に論理だてた方法で説明している。説明によれば、ヴァロットンはまるでキャンバスにカーテンを下ろしていくかのように上から下へと描いたという。
ポストナビ時代のヴァロットンの絵画は、一般的に技術的な質の高さと律儀な創作姿勢で賛同者を得ていたが、彼のスタイルの厳格さはしばしば批判された
。典型的な批判は、1910年3月23日付けの『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング』に掲載された批評家文章で、「警察のような塗り方、仕事人のように形態や色をつかんでいるよう。すべてが耐え難いほどの乾きを伴ってきしんでいる。色にはまったよく楽しさがない」と評された。
しかし、その妥協のない性格のおかげで、彼の芸術は1920年代にドイツで発展した新即物主義を予見したといえるだろう。
晩年
美術批評もときどき続けていたが、ほかにも著作活動をおこなった。ヴァロットンは8つの戯曲を書き、そのいくつかは1904年と1907年に上演されたが、批評家はよくなかった。ほかに3冊の小説も書いた。その1冊、半自伝的な『La Vie meurtrière(殺意の人生)』は、1907年から書き出したが、出版されたのは死後だった。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヴァロットンは自主的にフランス軍に入隊しようとしたが、高年齢のため入隊を拒否される。1915年から1916年に、ヴァロットンは1901年以来初めて木版画に戻り、新たなシリーズ『この戦争』で、帰化した国フランスへの感情を表現した。これが最後の木版画だった。その後、1917年に美術庁の注文でシャンパーニュ前線を3週間回って過ごした。このときに彼が制作したスケッチは絵画の基盤となった。その1つが《スアン教会》である。
晩年、ヴァロットンは静物画や「合成風景画」に力を入れた。後者は、写生するのではなく、アトリエで記憶と想像から創作する風景画のことである。1925年、パリで、ガンの手術後に死亡。その日は60歳の誕生日の翌日だった。
1926年にアンデパンダン展で回顧展が開催された。ヴァロットンの作品の一部はヴァン・ゴッホやモディリアーニ、スーラ、ロートレック、シュツェンベルガーらとともにグラン・パレで展示された。