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【美術解説】フリーダ・カーロ「セルフ・ポートレイト絵画の先駆者」

フリーダ・カーロ / Frida Kahlo

セルフ・ポートレイト絵画の先駆者


フリーダ・カーロ《ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト》1940年
フリーダ・カーロ《ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト》1940年

概要


生年月日 1907年6月6日
死没月日 1954年6月13日
国籍 メキシコ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム、マジックリアリズム
配偶者 ディエゴ・リベラ

フリーダ・カーロ(1907年6月6日-1954年6月13日)はメキシコの画家。セルフポートレイト作家として一般的に知られている。

 

カーロの人生は、メキシコシティの彼女の生家「青い家」で始まり、同じく「青い家」で終わった。彼女の作品はメキシコや先住民族の伝統の象徴として祝されており、また女性的な感覚や形態を率直に、冷徹な視点でもって表現したフェミニン・アーティストの代表として、フェミニストたちから評価されている

 

メキシコ文化とアメリカ文化の伝統が彼女の作品における重要な要素で、美術史において素朴派や土着固有のフォークアートとして位置づけられることもある。

 

シュルレアリスムとしても評価が高く、実際に1938年にシュルレアリスムのリーダーことアンドレ・ブルトンから「フリーダの芸術は爆弾に結ばれたリボンである」と絶賛された。なお、フリーダ自身は、シュルレアリストとラベルをはられることを拒否しており、自身の作品は夢よりも自身の現実を反映したリアリズム志向であると主張していた。

 

カーロは幼少のころのバスと路面電車の交通事故の後遺症で苦しんだ。交通事故の傷を癒やすためほかの人から3ヶ月ほど隔離生活を余儀なくされたことは、彼女の作品に大きな影響を与えている。この後遺症は死ぬまで続き、晩年は右足の血液の循環が不足して指先が壊死、切断。

 

カーロはメキシコ壁画運動で知られるメキシコ人画家ディエゴ・リベラと結婚したが、結婚生活は辛いことが多かった。結婚後、3度妊娠したが、幼少期の事故の後遺症で骨盤や子宮に損傷を受けていたのが原因で3度とも流産。

 

これらの出来事はカーロに深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えた。さらに妹と浮気症の夫リベラの不倫、カーロの芸術的成功を妬むリベラとの間で夫婦間に亀裂が入る。

 

「私はほとんどの時間を一人で過ごすし、自分のことは自分がいちばん知っているから、自分を描くのです」と語っている。

重要ポイント

  • セルフポートレイトの先駆的存在
  • メキシコや先住民の伝統の象徴として評価
  • 20世紀初頭のフェミニンアーティストとして評価もされている

略歴


幼少期


カーロは幼いころから芸術に関心を示し、父親の友人である版画家フェルナンド・フェルナンデスからドローイングを教わった。幼いころの彼女のノートブックはスケッチ画で埋められている。

 

1925年にカーロは家族の生活を支えるため学校外で働きはじめる。速記者として短期間勤めたあと、カーロはフェルナンデスの下で有給の彫刻弟子となる。フェルナンデスはカーロの芸術的才能を見抜いていたが、当時のカーロ自身は芸術を仕事するつもりはなかったという。

 

しかし、1925年にバスと路面電車の交通事故に遭い、カーロは3ヶ月間歩行できなくなったのをきっかけに、科学と芸術に関心のあった彼女は医学専門のイラストレーターの仕事を考えるようになる。

 

カーロはベッドで絵を描くための特製イーゼルと、自分の姿を見るためにイーゼル上に設置できる鏡を所有していた。

 

事故を境に絵画はカーロにとってアイデンティや存在理由を探求する方法となった。のちに交通事故とそのときの孤立時の回復期間は「自分自身が見たものをありのまま描き、それ以上のことは何もない」という彼女の思想を形成させたと話している。

 

1929年に夫のリベラとモレロスに移住し、そのときに住んでいたスペイン風のクエルナバカにインスピレーションを受ける。芸術スタイルを変化させ、メキシコの土着芸術をインスピレーションの源泉にする機会が増えはじめた。

 

美術史家のアンドレア・ケッテンマンは、カーロはアドルフォ・ベスト・モーガードの論文に影響を受けた可能性があると述べている。遠近法の欠如やコロンブス以前と植民地時代のメキシコ芸術の要素の組み合わせなどモーガードが研究していた主題を、カーロは数多く取り入れている。

 

メキシコ人としてのアイデンティティとメキシコ文化に対する深い関心は、生涯を通じてカーロの芸術の重要な側面となった。

1919年6月15日撮影。カーロ11歳。
1919年6月15日撮影。カーロ11歳。

アメリカでの活動


1930年にカーロとリベラがサンフランシスコへ移ると、カーロはエドワード・ウェストン、ラルフ・スタックポール、ティモシー・プリューガー、ニコラス・ムレイなどのアメリカ人アーティストに紹介されるようになった。

 

サンフランシスコで過ごした6ヶ月は、カーロにとって生産的な時代だった。カーロはクエルナバカで取り入れた民芸スタイルの美術をさらに発展させた。

 

いくつかの新しい知人の肖像画に加え、カーロはリベラとの結婚写真を基盤にした二人の肖像画《フリーダとディエゴ・リベラ》(1931年)や、アメリカの植物学者・園芸家ルーサー・バーバンクの肖像画《ルーサー・バーバンク》(1931年)を制作した。

 

《フリーダとディエゴ・リベラ》(1931年)
《フリーダとディエゴ・リベラ》(1931年)

当時のカーロは、まだアーティストとしてよりもむしろ単にリベラの配偶者として公然に紹介されていたが、フリーダとディエゴ・リベラがリージョン・オブ・オーナー美術館で開催されたサンフランシスコ女性芸術家協会第6回年次展覧会に参加した際、カーロははじめて芸術家として認識されるようになった。

 

リベラとデトロイトへ移ると、カーロは流産に関する多くの健康問題を経験した。これらの健康上の問題と同様、米国の資本主義文化に対する彼女の嫌悪感にもかかわらず、都市で過ごしたカーロの時間は自身の芸術的表現に有益をもたらした。

 

カーロはエッチングやフレスコ画などさまざまな技法を試し、また彼女の絵画作品は強い物語性が表れるようになり、「恐怖、苦しみ、傷、痛み」を主題として重視しはじめた。

 

当時のメキシコ芸術では壁画が人気だったにも関わらず、彼女は正反対のメディウムである奉納芸術やレタブロ、またアマチュア芸術家による小さな金属版で作られた宗教画を制作した。

 

デトロイトでレタブロ様式で制作した作品の中には、《ヘンリー・フォード病院》(1932年)、《私の誕生》(1932年)、《メキシコとアメリカの国境上のセルフポートレイト》(1932年)などが代表的である。

《メキシコとアメリカの国境上のセルフポートレイト》(1932年)
《メキシコとアメリカの国境上のセルフポートレイト》(1932年)
1926年頃のフリーダ・カーロ
1926年頃のフリーダ・カーロ

メキシコシティに戻り国際的に成功


1934年にメキシコシティに戻ると、カーロは合併症が悪化して健康状態悪くなったことが原因で新作を作らなくなり、翌年はたった2作品しか作らなかった。

 

しかし、1937年と1938年、カーロの芸術活動はリベラとの離婚の和解のあとに非常に生産的になった。カーロはリベラとの8年の結婚生活期に制作した点数よりもはるかに多くの作品を制作した。この時期の代表的な作品は、《看護師と私》(1937年)、《記憶、心》(1937年)、《メキシコの4人の住民》(1938年)、《水が私にもたらしたもの》(1938年)がある。

 

《水が私にもたらしたもの》(1938年)
《水が私にもたらしたもの》(1938年)

彼女はまだ自分の作品について確信を持っていなかったが、メキシコ国立自治大学は1938年初頭に彼女の絵画を展示した。

 

1938年の夏、映画スターでアートコレクターのエドワード・G・ロビンソンが、カーロの4点の作品をそれぞれ200ドルで購入した出来事がカーロにとって最初の大きなセールとなった。

 

また、1938年4月にフランスのシュルレアリスム運動の指導者のアンドレ・ブルトンのリベラとの会合は、カーロの芸術キャリアを高める大きな出来事になった。ブルトンはカーロに感銘を受けすぐに彼女をシュルレアリストと認定し、彼女の作品に対して「フリーダの芸術は爆弾に結ばれたリボンである」と絶賛する文章を書いて紹介した。

 

ブルトンはカーロの作品をパリで展示する約束をし、また友人でニューヨークの画商ジュリアン・レヴィにマンハッタン東57番地にある彼のギャラリーでカーロの初個展を開催のための紹介状を書いた。

 

 

なお、フリーダは、シュルレアリストとラベルをはられることを拒否しており、自身の作品は夢よりも自身の現実を反映したリアリズム志向であると主張していた。

 

10月、カーロはニューヨークに一人旅をし、そこで彼女のカラフルなメキシコドレスが注目されセンセーショナルを巻き起こし「エキゾチカの頂点」と見られるようになった。

 

11月に開催された展覧会では、ジョージア・オキーフやクレア・ブース・ルースなどの著名人らが訪問する。美術批評家たちの多くはカーロ作品について辛口な批評をしたが、マスコミはカーロに対して非常に前向きに紹介したため、彼女はアメリカで注目を集めるようになった。

 

たとえば『Time』誌は「リトル・フリーダの作品はメキシコの伝統のひな形というべきものであり、そこには鮮やかな赤、黄色、感傷的でない子どもの遊び心にある血まみれなファンシーを宿していた」と評している。

 

当時、世界大恐慌期であったにもかかわらず、展覧会で展示された25点の絵画作品の半分が売れた。また、カーロはMoMa社長のアンソン・グッドイヤーからの依頼を受け、ルーシーの友人でアパートの建物から飛び降り自殺した社交家ドロシー・ヘイルの肖像画作品《ドロシー・ヘイルの自殺》(1938年)を描いた。

 

ニューヨークで滞在した3ヶ月間、カーロはほとんど作品制作をしなかったが、代わりに病弱な身体が許す範囲でニューヨークの街を存分に楽しんだ。また、さまざまな人々と関わり、その中の1人の写真家ニコラス・ムレイとは長い交友関係を構築し、ほかにも画商のレヴィや建築家のエドガー・カウフマン・ジュニアらと交友関係を結んだ。

《ドロシー・ヘイルの自殺》(1938年)
《ドロシー・ヘイルの自殺》(1938年)

ヨーロッパでの展示


1939年1月、カーロはアンドレ・ブルトンの招待で作品展示をするためパリへ出航する。到着時、カーロは税関手続きを済ませておらず、ギャラリーも決まってことがわかった。その後、マルセル・デュシャンの助力を得て、カーロはレノウ・エコレ・ギャラリーでの展覧会を開催することになった。

 

しかし、ギャラリーが2点のカーロの作品を除く残りすべての展示を拒否し、鑑賞者にとっても非常に衝撃的でさらなる問題が発生する。

 

ブルトンは、マヌエル・アルバレス・ブラボが撮影した写真、コロンブス以前の彫刻、18、19世紀のメキシコの肖像画、そしてを彼女が「ジャンク」とみなしたもの(頭蓋骨、おもちゃ、メキシコの市場で購入したさまざまなアイテム)とを並べて描いていると主張した。

 

展覧会は3月に始まったが、迫りくる第二次世界大戦の影響もあり、アメリカほど注目を集めず商業的にも失敗したため、カーロはロンドンで予定していた展覧会を中止した。

 

しかし、ルーブル美術館がカーロの作品《The Frame》(1938年)を購入し、彼女はルーブルにコレクションされた最初のメキシコ人画家となった。

 

また、商業的には失敗したもののカーロはパブロ・ピカソジョアン・ミロをはじめパリのアーティストやファッション業界からも温かく迎えられ、ファッションデザイナーのエルザ・シャパレリはカーロからインスピレーションを受けたドレスをデザインし、ファッション雑誌『ヴォーグ・パリ』ではカーロの特集記事が掲載された。

 

パリのアートワールドやシュルレアリストたちの間ではカーロ作品に対しては全体的に否定的な意見が多かった。ムーレイへの手紙で、彼女はシュルレアリストたちについて「精神異常者たちと非常に愚かなシュルレアリストたち」と悪態をついていた。

《The Frame》(1938年)
《The Frame》(1938年)

南米でさらに評価が高まる


一方、アメリカではカーロの作品への関心はますます高まっていった。1941年、カーロの作品がボストン現代美術研究所で紹介され、翌年1942年にはニューヨークでの2つの重要な展覧会、MoMAの「20世紀の肖像画展」と「First Papers of Surrealism展」に参加した。

 

1943年、カーロはニューヨークのペギー・グッゲンハイムが運営する今世紀芸術ギャラリーで「女性芸術家展」に参加。また、フィラデルフィア美術館での「今日のメキシコ美術展」にも参加した。

 

カーロは故郷メキシコでも評価が高まりはじめた。1942年、メキシコ文化の一般教養を広めるため公教育省から依頼を受けた25人から構成される芸術家集団「Seminario de Cultura Mexicana」の創設メンバーの1人になった。カーロは会員として展覧会の企画に参加したり、芸術に関するカンファレンスに出席した。

 

メキシコシティにおいて、カーロの絵画は1943年と1944年にベンジャミンフランクリン図書館で開催されたメキシコ芸術に関する2つの展覧会で展示された。

 

カーロは年に一度の花の博覧会で開催される展覧会「サロン・ド・フロール」へ展示招待された。また、カーロの芸術に関するリベラによる記事がSeminario de Cultura Mexicanaから出版された。

 

1943年、カーロは最近改修されたメキシコ国立美術大学の指導的位置として教鞭をとることになった。カーロは学生たちに形式張らず非階層的な方法で美術に取り組むことを奨励し、そのひとつとしてメキシコ大衆文化や民族芸術を鑑賞し、ストリートから主題をつかむよう教えた

 

健康上の問題でメキシコシティの美大に通うことが困難になりはじめると、カーロはラ・カーサ・アズールで授業をはじめた。カーロの教え子の芸術家ではファニー・ラベル、アルトゥーロ・ガルシア・ブストス、ギジェルモ・モンロイ、アルトゥーロ・エストラーダ・エルナンデスらが熱狂的なカーロ信者となり、彼らの熱意から4人は「ロスフリドス」呼ばれている。

 

カーロは自身と生徒のために3つの壁画制作依頼を受けた。メキシコ政府は、洗濯女として生計を立てている貧しい女性を支援する国家計画の一環として、コヨアカンの洗濯場に壁画を描くよう彼らに依頼した。

 

同年、カーロらのグループはメキシコシティのホテル、ポサダデルソルで壁画を制作する。 しかし、ホテルオーナーが気に入らなかったため、完成後すぐに破壊された。

 

カーロは絵画制作をするにあたってクライアントの要望にあわせようとしなかったことが原因で、1940年代なかばら後半まで仕事が少なく芸術で生計を立てるのに苦労した。

 

カーロは1940年代初期にメキシコ政府から2つのコミッションを受けた。最初の作品は未完に終わったが、これはおそらく主題がカーロにとって好まなかったためであり、もう1つの作品は完成したがクライアントから拒否された。

 

こうした難しい性格だったが安定した顧客もいた。エンジニアのエドゥアルド・モリロ・サファは10年以上にわたってカーロに家族の肖像画を30点以上注文している。カーロの家計は1946年に制作した絵画《モーゼ》(1945年)が5000ペソの全国賞を受賞し、また1947年に近代美術館がカーロの作品を2点購入したころに改善した。

 

美術史家のアンドレア・ケッテンマンによると、1940年代半ばまでに、彼女の絵画は「メキシコのグループ展の多くで展示された」と書いている。 さらに、マーサ・サモラは、「彼女が現在描いているものは何でも売れます。時々、未完成の作品でもイゼールからとりあげられ購入されていた」と書いている。

《モーゼ》(1945年)
《モーゼ》(1945年)
《希望の木、強いまま》(1946年)
《希望の木、強いまま》(1946年)

晩年


カーロはメキシコで認知度が高まっていたにもかかわらず、健康状態は急速に悪化していき、脊椎手術は失敗した。

 

この時代の作品の代表作としては《壊れた柱》(1944年)、《希望がない》(1945年)、《希望の木、立ち上がる》(1946年)、《傷ついた鹿》(1946年)などがあり、これらの作品は彼女の悪化した身体状態を反映している。

《傷ついた鹿》(1946年)
《傷ついた鹿》(1946年)

晩年、カーロはほとんどカーサ・アズールにいた。そこでおもに静物画、果物や花や旗や鳩といった政治的シンボルを描いた。カーロは自身の政治的信念を描くことができるか考えた

 

「今、私の絵画は非常におちつきがない。おもに共産主義運動に役立てたいと思っているためだ。今まで私は単に自分自身の真実を表現するために描いていた。生きるための唯一の理由である革命へ利益もたらすために、少しでも身体がまともなときは全力で戦わなければいけない」と話している。

 

また、彼女は絵画のスタイルを変更した。以前は繊細で緻密だったが、筆致はやや激しくなり、色がより鮮やかになり、全体的に激しく熱い絵画になっていった

 

写真家のローラ・アルバレス・ブラボーは、カーロの寿命がそれほど長くないことを察知し、1953年4月にメキシコのガレリア・アルテ・コンテンポラネオで初個展を開催した。

 

カーロは当初オープニングに出席する予定はなく、担当医は彼女を自宅の寝室に休ませていたが、カーロは四柱式寝台を自宅からギャラリーへ直接移動するよう命じた。驚くことに彼女は救急車で現場へ到着し、救急車から担架で運び込んでいた四柱式寝台へ移り、オープニングパーティに参加した。

 

この個展はメキシコにおける注目すべき文化的イベントとなり、世界中のマスメディアでも注目を集めた 同年、ロンドンのテートで開催メキシコ芸術に関する展覧会では、5枚のカーロの絵画が展示された。

 

1954年、カーロは4月と5月に再入院。その春、カーロは1年のブランクを得て絵画制作を再開した。彼女の最後の作品は政治的意図のある《マルクス主義が病気を治す》(1954年)や《フリーダとスターリン》(1954年)と、静物画の《ビバ・ラ・ヴィダ》(1954年)である。

《フリーダとスターリン》(1954年)
《フリーダとスターリン》(1954年)
《ビバ・ラ・ヴィダ》(1954年)
《ビバ・ラ・ヴィダ》(1954年)

美術的評価


カーロは生涯にどのくらいの点数の絵画を制作したかの詳細はわかっていないが、150〜200点ほどだとみなされている。

 

1920年代なかばに制作された初期作品には、ルネサンス巨匠やアメディオ・モディリアーニのようなヨーロッパの前衛芸術家たちの影響が見られる。また、メキシコの民俗芸術からも多大なインスピレーションを受け、「暴力や死に付随する幻想、素朴、魅惑」的な要素に関心を抱くようになった。

 

彼女が発展させた芸術スタイルは、現実主義とシュルレアリスム的な要素を融合させたもので、しばしば痛みや死を描写した。

 

カーロの初期支持者の1人はアンドレ・ブルトンだった。ブルトンは自身や友人たちのシュルレアリスム運動が彼女の創作にまったく影響を与えず、彼女自身のスタイルを発展させた芸術家として、シュルレアリスム運動の一部に位置づけた。

 

バートラム・D・ウルフもまた、「彼女が独自に発明した一種の「素朴なシュルレアリスム」であるとブルトンの批評に同調した。

 

ブルトンはカーロをおもにシュルレアリスム運動における女性陣と見なしていたが、カーロはシュルレアリスムと烙印されることに疑問をいだいてた。

 

その後、シュルレアリスムの展覧会に参加したが、カーロは「シュルレアリスムは嫌い」と述べており、また、カーロにとってシュルレアリスムは「ブルジョア芸術」であり「人々が芸術家へ望む真の芸術」とは思えなかったと話している。

 

美術史家の中には、カーロをシュルレアリスム運動に属するものとして分類すべきかどう疑う人も多い。どちらかといえば、カーロは自身の内なる体験を詳細に描写することに関心を持つ象徴主義だと評されている。

 

エマ・デクスターは、カーロはシュルレアリスムではなく、おもにアステカ神話とメキシコ文化を基盤としたファンタジーと現実主義を融合させたもので、彼女の作品は新即物主義として知られるマジックリアリズムと多くの共通点があると考えるのが適切であると批評している。

 

新即物主義には現実と幻想の融合、フラットな遠近法、輪郭が明確に描かれた人物造形、明るい色などカーロと同様のスタイルが見られる。


 ●参考文献

Frida Kahlo - Wikipedia