【美術解説】フランツ・マルク「動物をモチーフにした絵で人気の前衛芸術家」

フランツ・マルク / Franz Marc

動物をモチーフにした絵で人気の前衛芸術家


フランツ・マルク「動物の運命」(1913年)
フランツ・マルク「動物の運命」(1913年)

概要


生年月日 1880年2月8日
死没月日 1916年3月4日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画、版画
ムーブメント ドイツ表現主義(青騎士)
関連人物 ワシリー・カンディンスキーオウガスト・マッケ
関連サイト WikiArt(作品)

フランツ・マルク(1880年2月8日-1916年3月4日)はドイツの画家、版画家、ドイツ表現主義の主要人物で青騎士グループの創設メンバーの1人。動物をモチーフにした絵画を多く描いていたことで知られる。

 

初期は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに影響を受けた感情豊かな表現主義的な作品だったが、ロベール・ドローネーの絵画に出会ってあから、未来主義の豊かな色彩やキュビスムの抽象的な構成を絵画に取り入れるようになる。

 

マルクにとって青は男性の精神性を表し、黄色は女性に対する好感、赤は暴力を表すものだったという。代表作品は1913年制作の「動物の運命」。翌年に勃発する戦争による大災害への予兆と社会全体の緊張を表現している。

略歴


若齢期


フランツ・マルクは1880年にバイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれた。父ウィルヘルム・マルクは風景画のプロで、母ソフィアは専業主婦で厳格なカルヴァニストだった。

 

1900年にマルクはミュンヘン美術大学に入学し、ガブリエル・フォン・ハックルやヴィルヘルム・フォン・ディーツのもとで学ぶ。1903年から1907年までフランス、特にパリに滞在し、美術館を訪れて多くの古典巨匠の絵画の模写しながら絵画技術を高めた。

 

特にヴィンセント・ヴァン・ゴッホから強い影響を受けた。またパリでは芸術業界に頻繁に通い、多くの芸術家と交流を持った。その中には女優のサラ・ベルンハルトもいた。

 

1906年にマルクは兄のポールと、テッサロニキやアトス山をはじめさまざまなギリシャ地域を旅する。1910年、マルクはのちに青騎士の共同設立メンバーでオウガスト・マッケと重要な友好関係を持つようになる。

 

同年、マルクは「猫と放牧場と裸体」を制作、ミュンヘンのタノーサー画廊で開催された「第二回新芸術家連盟」で作品が展示された。

フランツ・マルク「猫と放牧場と裸体」(1910年)
フランツ・マルク「猫と放牧場と裸体」(1910年)

青騎士の創設


1911年にマルクは美術ジャーナル誌『青騎士』を創刊。青騎士はそのまま芸術家集団となり、オウガスト・マック、ワシリー・カンディンスキーとともにマルクはその中心人物となった。ほかに新芸術家連盟から離れた芸術家たちも青騎士にくわわった。

 

青騎士の初展覧会「青騎士」が、1911年12月から1912年1月までタノーサー画廊で開催され、マルクの作品も展示された。この時期がドイツ表現主義ムーブメントの頂点といっていいだろう。その後、青騎士の展示は、ベルリン、ケルン、ハーゲン、フランクフルトでも開催された。

フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

キュビスムや未来主義の影響


マルクはロベール・ドローネーの色彩や未来主義的でキュビスム的な絵画に出会い、大きな影響を受け、画風に変化が現れ始める。そうした影響下で描かれたのが1912年制作の「虎」や「赤い鹿」や、1913年制作の「青い馬の塔」「狐」「運命の動物」である。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、マルクは騎兵としてドイツ軍に従軍する。妻への手紙によれば、1916年2月までにマルクは迷彩塗装の仕事に移動していたとされる。しかし、ヴェルダンの戦いにおいて36歳の若さで命を落とした。戦死後、鉄十字勲章を受けている。

フランツ・マルク「虎」(1912年)
フランツ・マルク「虎」(1912年)
フランツ・マルク「青い馬の塔」(1913年)
フランツ・マルク「青い馬の塔」(1913年)

■参考文献

Franz Marc - Wikipedia

・カンディンスキー NBS-J (ニューベーシック・シリーズ)


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