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【美術解説】フランシス・ベーコン「20世紀後半において最も重要な人物画家」

フランシス・ベーコン / Francis Bacon

20世紀後半において最も重要な人物画家


『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年),公式サイトより
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年),公式サイトより

20世紀を代表する英国人アーティスト、フランシス・ベーコンの生涯と作品にご興味はありませんか?さて、あなたは正しい場所に来ました。この記事では、ベーコンの人生、旅、そして作品群について詳しく見ていきます。ベーコンの作品の背景や文脈、彼が芸術を通して探求したテーマ、そして長年にわたって受けた批評的な反応について深く掘り下げます。フランシス・ベーコンの世界への旅を始める準備はできましたか?さっそく始めましょう。

 

目次

概要


生年月日 1909年10月28日
死没月日 1992年4月28日
国籍 イギリス
職業 画家
関連人物 ルシアン・フロイド
代表作品

ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作

ルシアン・フロイドの3つの習作

キリスト磔刑図のための3つの習作

活動場所 ベルリン、パリ、ロンドン
関連サイト

http://francis-bacon.com(公式サイト)

フランシス・ベーコン(1909年10月28日-1992年4月28日)は、アイルランド生まれのイギリス人画家。

 

激しく大胆な筆致と生々しく不穏なイメージが特徴で、鑑賞者に不安感や孤独感を与えることで知られている。

 

十字架像、教皇の肖像、自画像、親しい友人の肖像などの人物画の多くは抽象的に描かれ、雑然とした平面的な背景で構成される。

 

金縁の額とガラスで額装された作品は、鑑賞者との間に「へだたり」や3D的な奥行きを生じさせている。

 

ベーコンは、さまざまな分類を拒否し、「事実の残酷さ」を表現することに努めたという。その独特のスタイルで現代美術の巨人の一人として名声を築き上げた。

 

20代初頭から絵を描き始めているが、30代なかばまで不安定な活動で、芸術的なキャリアはほぼなかったという。

 

絵描きとしての能力に自信がもてなかった若い頃のべーコンは、グルメ趣味、ホモセクシュアル、ギャンブル、インテリアデザイン、家具デザイン、カーペットデザイン、浴室タイルデザインなど、さまざまな自身の中にある世界をさまよっていた。

 

のちにベーコンは、自身が一貫して関心を持てる主題を探すのに相当な時間がかかったことが、芸術家としてのキャリア形成が遅れた原因であると話している。

《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》(1944年)
《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》(1944年)

ベーコンが絵描きとして注目を集めるようになったのは1944年に制作した三連画《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》からで、第二次世界大戦直後から、本格的に画家としての評価が高まりはじめた。

 

1971年に批評家のジョン・ラッセルは、「『3つの習作』以前のイギリス絵画と以後の作品は混同することはできない」と話している。

 

ベーコン芸術の本質は“連続性”“時間”である。1人の人物、または持続した1つの時代をモチーフとし、その単一モチーフの変化や順序を絵画で描きだしていく。しばしば「トリプティック」や「ディプティック」と呼ばれる。

 

1930年代にピカソに刺激を受けた作品《磔》を皮切りに、1940年代には部屋や幾何学的な構造のなかの孤独な男性像を、1950年代には『叫ぶ教皇』シリーズ、1950年代後半は動物や孤独なポートレイトへと変遷していった。

 

1960年代には、親しい友人や仲間のポートレイトが多くなる。いずれも単独で、あるいは複数の作品から構成されている。

 

1971年に最愛の人であったジョージ・ダイヤーが亡くなった後、、ベーコンの作品はより私的で内省的なものとなり、時間の経過や死に対してこれまで以上にのめり込んでいく。

 

1982年の『セルフポートレイトの習作』や、1985年から1986年の『セルフポートの習作三連画』がこの時代の代表的な作品である。

  

ベーコンは多作な作家であったが、中年期はロンドンのソーホー地区で、ルシアン・フロイド、ジョン・ディーキン、ムリエル・ベルチャー、ヘンリエッタ・モライス、ダニエル・ファーソン、ジェフリー・バーナードらと、日々食事や酒、賭け事、交友を楽しんでいたという。

 

ダイヤーが亡くなった後は、遊び仲間たちと距離を置きはじめたものの、飲み食いやギャンブルに明け暮れる生活は続き、最終的にはベーコンの跡継ぎとなるジョン・エドワードと、やや父子関係的なプラトニックな関係の生活に落ち着いていった。

 

ベーコンはその生涯において、多くの批判と賞賛に耐えてきた。美術批評家のロバート・ヒューズは「20世紀のイギリス、いや世界で最も激情的で叙情深い芸術家」と評し、また「ウィレム・デ・クーニングと並んで20世紀後半における最も重要な肖像画家」と評した。

 

これまでテート美術館で二度の回顧展、また1971年にフランスのグラン・パラで回顧展が開催されている。

 

死後も、評価や作品価格は上がり続け、作品の大半は人気が高く、オークションで高値を付けている。

 

ベーコンは作品を壊す癖があり、1990年代後半の主要作品や1930年代から1940年代に描いた作品の大部分が破棄され、現存する作品が少ないのもオークションで高値を付ける大きな要因となっている。

 

2013年11月12日《ルシアン・フロイドの3つの習作》は、オークションで1億4200万ドルというオークション史上最高値で落札された。

 

なお、2015年5月にピカソの《アルジェの女》が1億7900万ドルでベーコンの記録を更新した。

重要ポイント

・20世紀後半における最も重要な肖像作家

・「時間」や「動き」を主題とする

・トリプティック(3連)が特徴

 

作品解説


「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作」
「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作」
「キリスト磔刑図のための3つの習作」
「キリスト磔刑図のための3つの習作」
ルシアン・フロイドの3つの習作
ルシアン・フロイドの3つの習作

略歴

幼少期


フランシス・ベーコンはイングランド系の両親のもと、アイルランドのダブリンにあるロウアー・バゴット・ストリート63番地にある特別看護施設で生まれた。

 

父のキャプテン・アンソニー・エドワード・モーティマー・"エディ"・ベーコンは、南オーストラリアのアデレードで、イギリス人の父とオーストラリア人の母との間に生まれている

 

ボーア戦争の退役軍人であったエディは、乗馬指導員として名声を得ており、厳しく男らしさを讃える人物だった。

 

一方、母のクリスティーナ・ウィニフレッド・“ウィニフィ”・ファースは、鉄鋼業と石炭業を営むイギリスの裕福な一族の跡取り娘であった。

 

また父の祖先は、エリザベス女王時代の哲学者でエッセイストのフランシス・ベーコンの異母兄弟のニコラス・ベーコン男爵の血筋だとされている。

 

ほかに、詩人バイロン卿と交際のあった美女レディ・シャーロット・メアリーと関わりがあるといわれている。このように、ベーコンの幼少期は格式高い環境の中で過ごしたのである。

 

また、ベーコンにはハーレイという兄と、アンシーとウィ二フィという2人の妹、それにエドワードという弟がいる。

 

ベーコンが家族のなかで最も仲が良かったのは乳母のジェシー・ライトフットである。のちにベーコンが家族から勘当されてからも、彼女とは親しい間柄で、独立時には同居し、ベーコンの必要な世話もさせていた。

 

ライトフットはベーコンの絵のモデルとしても有名で、“ナンシー・ライトフット”という名前でよく知られ、母親像のように描かれている。

 

1940年代には、画材やギャンブルの資金を提供したとも言われており、彼の良き理解者であった。

 

ベーコンの家族は何度も転居を繰り返し、アイルランド共和国とイギリスの間を何度も行き来していた。この幼少期の遊牧民のような生活は、ベーコンの創作活動に大きな影響を与えた

 

1911年、一家の住まいはアイルランド・キルデア州からロンドンのウェストボーン・テラスに移った。父親は英国国防軍で労働していた。

 

第一世界大戦の終結後、彼らは再びアイルランドに戻る。ベーコンは母の故郷であるリーシュ県に住み、その後、母の出生地であるキルデア県に移った。

 

1924年に、一家はイギリスのグロスタシャー州ゴザーリントンのプレスコット・ハウスに移り、その後、ヘレフォードシャーのリントン・ホールに移り住んだ。

 

フランシス・ベーコンは、普段は気弱な性格で、一般に異性に見られる衣服を好んで身に着けていた。この女装癖は、父親の憤慨と不興を買った

 

そのため、ベーコンは家族から完全に引き離されることになった。ベーコン一家の仮装パーティでフランシスは口紅をつけ、スティレットを履き、ビーズのついたフロック、長いタバコ、1920年代に好まれた「モダンレディ」のヘアスタイルで自己表現をしていたという。

 

妹のアンシーは、ベーコンが12歳のときにクローシェ帽を被り、長いタバコ棒を手にもった女性の絵を描いていたと回想している。

 

それから数年後、フランシスが母親の鏡台の前で母親のランジェリーを身に着けて楽しんでいる姿を発見し、ついに怒りが頂点に達して、フランシスを勘当。家から追い出した。

ベーコン出生地のダブリン、ロウアー・バゴット・ストリート63番地
ベーコン出生地のダブリン、ロウアー・バゴット・ストリート63番地
ベーコンと母
ベーコンと母
競走馬を育てるベーコンの父
競走馬を育てるベーコンの父

ロンドンからパリへ放浪


1926年後半、父親の経済的援助から切り離されたベーコンは、ロンドンに移り住み、自立した生活を始めた。母親から毎週3ポンドの小遣いをもらっていた。

 

この頃、彼の読書の中心はニーチェの著作であった。貧しかったので、家賃を払う前にアパートから逃げ出したり、窃盗を働いたりしていた。

 

ベーコンは、安定した収入源を得るために、さまざまな職業に就いた。母親から料理を習っていたこともありコックの仕事に就いてみたが、あまりに退屈だったのですぐに辞めてしまう。

 

ほかにソーホーのポーランド・ストリートにある女性向けブティックで留守番電話係として雇われたが、店主にポイズン・ペン・レターを書いただけでクビになった。それ以来、一貫して仕事がない。

 

ロンドンの下町を歩き回り、富裕層と交友を深める。グルメに関する深い知識を持ち、もともと育ちのいい趣味や知識があったため、ある種の男性たちの人目を引いた。

 

家族から「醜い」と言われて育ったベーコンだが、イギリスの裏社会では「かわいい」と言われ、ゲイの世界に飛び込んでいく。

 

こうして知り合った同性愛者を通じて仕事をみつけ、ロンドンで生計を立てるようになる。

 

彼は、この界隈で生来の臆病さを克服し、経済的に成功した。ロンドンの暗黒街時代を経て社交術と生活術を身につけたのである

 

両親は心配し、叔父の競走馬ブリーダーであるハーコート・スミスに、教育目的でベルリン旅行にベーコンを連れて行く。

 

しかしハーコート・スミスはバイセクシャルだったので、ベーコンの客になってしまった。こうして、1927年にベーコンとハーコートはともにベルリンへ移り住んだ。

 

ベーコンはベルリンでフリッツ・ラングの映画『メトロポリス』やセルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』に大きな衝撃を受ける。

 

2ヶ月間ほどベルリンで過ごしたあと、ベーコンはハーコート・スミスと別れパリへ移る。「彼はすぐに私に飽きた。その後、女性と一緒に消えた」とベーコンは叔父について語っている。

 

ハーコート・スミスが失踪したあとベーコンは途方に暮れたが、生活するお金は少し残っていたので、一ヶ月ほどドイツを漂流し、パリに行くことに決める。

 

ベーコンはその後、半年ほどパリで過ごす。パリでピアニストで作曲家のイヴォンヌ・ボクエンティンの個展のオープニングに潜入し、彼女と親交を深めたのだ。

 

その後、ベーコンはフランス語の習得を決意し、ボッキュンタン夫人とその家族のもと、シャンティイに3ヵ月間滞在する。

 

ベーコンはパリ滞在中、首都パリのギャラリーを散策し、シャンティイ通りでニコラ・プッシーニの《嬰児殺し》という作品に出会う。

 

この作品に触発され、ベーコンは後に「叫ぶ法王」シリーズとして知られる作品を制作することになる。その後、ベーコンはこの「叫び」のアイデアに魅了されるようになる。

 

再びロンドンへ


1928年末から1929年初めにかけて、ベーコンはロンドンに移り住み、室内装飾の仕事を請始める。

 

南ケンジントンのクリーンズベリー・ミューズ・ウエスト17番地にスタジオを借り、上階をエリック・オルデン(ベーコンの最初の顧客)、ジェシー・ライトフット(ベーコンの幼少時の乳母)とシェアしていたのだ。

 

その後、ベーコンはイギリスの「タイムズ」紙に広告を掲載し、仕事のパートナーを探した。

 

その結果、ベーコンのいとこであるダグラス・クーパーが応募し、彼の協力でベーコンは装飾や家具のスタイルに磨きをかけることに成功した。

 

1929年、ドーバー・ストリートのバース・クラブで電話交換手として働いていたベーコンは、後に彼の支えとなり伴侶となるエリック・ホールと出会う。

 

同年冬、ベーコンの最初の個展がクイーンズベリー・ミューズで開催。抽象的模様のカーペットラグや家具の展示で、 『スクリーン』(1929年)や『WATERCOLOUR』などベーコンの初期作品も展示されていた。

 

それはラグのデザインを応用したような作品で、ジャン・リュルサの絵画やタペストリーから影響を受けているように見えるものだった。

 

シドニー・バトラーは、ベーコンに彼女のスミス・スクエアの自宅のダイニングルーム用家具として、グラス、スチールテーブルなどを依頼する。

 

ベーコンのクイーンズベリー・ミューズのアトリエは、雑誌『スタジオ』1930年8月号で特集され、見開きで『1930年の英国装飾』という見出しで紹介された。

 

1931年、ベーコンはクイーンズベリー・ミューのアトリエを離れ、自分の家と呼べるものを持たずに長い間放浪の旅に出た。

 

翌年、ベーコンはオーストリアに住むグラディ・マクダーモットの依頼を受け、彼女の住居の家具を制作し、装飾の仕事をした。

 

1933年の《磔》は一般公衆から最初に注目を集めた作品で、パブロ・ピカソの1925年作《3人の踊り子》に触発されて制作した作品だった。

 

しかし、この作品は評判が悪く、ベーコンは10年近く絵を描くことを中断し、完成した作品を封印することを選んだ。

 

1935年、パリの古本屋に行ったとき、歯の病気についての興味深い本を発見し、購入した。口の中の病気について書かれたこの本は、その後生涯、ベーコンの関心事の1つとなった。

 

1935年にエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』の中で、ポチョムキンの階段で叫ぶ乳母のシーンに触発され、彼の有名絵画《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》につながっていく。

 

ローランド・ペンローズとハーバート・リードが1935年から36年にかけて開催された国際シュルレアリスム展の出展者を選考していたとき、ベーコンに興味を持ち、チェルシーのロイヤルホスピタルロード71番地にある彼のスタジオに足を運ぶ。

 

ベーコン作品の出品が検討されたが、シュルレアリスム作品として不十分な出来だっため、結局不参加となった。

 

ペンローズはベーコンに「あなたは印象派以降に美術史で起こったさまざまな出来事を知らないのでは」と話したという。

 

1937年1月、トーマス・アグニュー&ソンズは、ロンドンのオールド・ボンド・ストリート43番地で、ベーコンも参加したグループ展「ヤング・ブリティッシュ・ペインター」を開催。

 

ほかにグラハム・サザーランド、ビクター・パスモア、ロイ・デ・メーストルらが参加。「庭にいる人」(1936年)、「アブストラクション」「人間の形態から抽象へ」などベーコンの作品は4点展示された。

 

第二次世界大戦が始まるとベーコンは、民間防衛会社に志願し、フルタイムでARP救助隊で働く。生存者の救出や遺体の捜索の仕事をしていたという。

 

なおナチス・ドイツ軍のイギリスへの空爆は後にベーコンに大きな影響を与える

 

また、ロンドン大空襲時に発生した粉塵のためにベーコンは持病の喘息を悪化させ、それが原因で会社を解雇される。

 

 

ロンドン大空襲時にベーコンは、愛人であるエリック・ホールとロンドン郊外のピータースでコテージで過ごしていた。

 

『車から抜け出す人』(1939-1940)はここで描かれた作品で、1945年から1946年に『車の光景』とタイトルを変更して再制作されている。

 

この作品は『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作』の中央のパネルに描かれた生物形態のルーツにあたるという。

「車から抜け出す人」(1939-1940)
「車から抜け出す人」(1939-1940)

画家として成功


『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)』(1944年)
『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)』(1944年)

1946年までにベーコンは絵描きとしての自信を取り戻し始める。自信を取り戻すきっかけとなったのは、1944年に制作した《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)》である。

 

本作は、ギリシア神話に登場する復讐の三女神エリーニュス、もしくは古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスの『オレステイア』の復讐の三女神を基盤にして制作されている。

 

平面的なオレンジ色の背景に即し、首を長く伸ばして、歯をむき出しにした3匹の正体不明の鳥のような生き物が描かれている。

 

この謎の生命体のイメージは、のちにデビッド・リンチの「イレイザー・ヘッド」における奇形児や、H.R.ギーガーによる「エイリアン」の造形に影響を与えた。

 

ピカソに影響を受けた作品「磔」や、古代ギリシアの詩に対する独自の解釈など、ベーコンのこれまでの作品の要素を凝縮させているのが本作の特徴である。

 

ベーコンは大規模な磔刑のシーンを描く際に、キリストの磔刑の文法が持つ慣習的な意味を無視し、十字架上の人物の描写を控えた。

 

3体の擬人化された生物についてベーコンは「人間のようでありながら歪んでいることを特徴とする有機体のイメージ」と話している。当時この作品についた一番多い形容は「悪夢」だった

 

 

ベーコンはインタビューの中で、『3つの習作』の発表が彼の芸術家としてのキャリアの始まりであったと述べている。

 

そのため、生涯を通じてアート・マーケットに初期作品が流通しないようにしていた。実際に破壊している作品も多数ある。ベーコンはインタビューで本作をもって“自身の画業の始まり”と明確に位置づけている。

 

1945年4月にロンドンのルフェブル・ギャラリーで『3つの習作』は初めて展示され、観客は唖然とするほど感嘆の声をあげた。

 

その後、ベーコンは戦後を代表する画家として評価され、1971年にはジョン・ラッセルが「『3つの習作』以前の作品とそれ以降の作品は似て非なるものであり、彼にとっての革命的瞬間であった」と発言している。

 

《絵画(1946年)》


『絵画(1946年)』
『絵画(1946年)』

ベーコンは1946年に《絵画(1946)》という作品を制作し、同年11月18日から12月28日までパリ国立近代美術館で開催された「国際現代美術展」をはじめ、いくつかのグループ展に出品した。この展覧会に出席するため、ベーコンはパリに向かった。

 

《絵画(1946年)》はハノーバー・ギャラリーで売買され、この絵の収益でベーコンは愛人のエリック・ホールとともにモンテカルロへ旅行する。

 

この間、彼らはラブホテルを含むさまざまなホテルやアパートに滞在し、最終的にはフォンテーヌ通りにある丘に大規模な別荘を建て、エリック・ホールと乳母のライトフットを招いて一緒に暮らした。

 

ベーコンは、以後数年の大半をモンテカルロのアパートで過ごしながらロンドンへときどき出張するようになる。残念なことに、この時期の作品のほとんどは、ベーコンによって破壊され現存していない。

 

しかし、1948年にニューヨーク近代美術館(MoMA)のアルフレッド・バールが《絵画(1946年)》を手にする。

 

ベーコンは、ニューヨークに作品を送る前にサザーランドへ絵画の色落ちを防ぐために固定液を塗布しておくよう依頼した。現在、この名画はひどい状態にあり、MoMA以外の施設に移され、展示することができなくなっている。

 

この時代にベーコンはアルベルト・ジャコメッティや生涯の友人となるイザベル・ニコラスらと知り合う。

1940年代後半


1948年後半、ベーコンはロンドンへ戻る。《頭部1》は1948年6月から9月まで、レッドファーン・ギャラリーの『サマーエキシビジョン』で展示され、翌年の春にハノーバー・ギャラリーでも展示された。

 

1949年11月8日から1949年12月10日まで、ハノーバー・ギャラリーで個展『フランシス・ベーコン:絵画:ローバと・アイアンサイド:カラー・ドローイング』が開催される。

 

《頭部1》から《頭部6》《人間の身体 習作》(1949年)、《ポートレイト 習作》(1949年)などの作品が展示され、画業成功後のベーコンの本格的な初個展となった。

 

ベーコンの作品は画家のパーシー・ウインダム・ルイスが、雑誌『リスナー』に好意的な批評を書かれたのがきっかけで注目を集めた。「ハノーバー・ギャラリーで非常に重要な展示が行われている。

 

フランシス・べーコンほどの美しい絵を描く若手作家はほかにいない」とルイスは評している。加えて「ベーコンは今日のヨーロッパにおいて最も重要なアーティストの1人であり、完全に彼の世界を描き出している」と評している。

 

《頭部6》はベーコンの最初の「叫ぶ教皇」シリーズの作品で、1946年にモンテカルロ滞在時に制作されたが、破壊されて現存していない。

『頭部1』(1948年)
『頭部1』(1948年)
『人間の身体 習作』(1949年)
『人間の身体 習作』(1949年)
『頭部6』(1946年)
『頭部6』(1946年)
『ポートレイト 習作』(1949年)
『ポートレイト 習作』(1949年)

1950年代のベーコン


ベーコンは、ミュリエル・ベルチャーが経営するソーホーのディーン・ストリート41番地にある「コロニー・ルーム」という芸術家の集う場所に、長年にわたって頻繁に出入りしていた。

 

第二次世界大戦のときに、ベルチャーはレスター・スクウェアで「ミュージック・ボックス」というクラブを持ち、午前2時半まで一般客に開放していたが、午前3時から午前11時事までをプライベートの酒盛りの時間にしていた。ベーコンはコロニー・ルーム初期の会員であり、また生涯会員でもあった。

 

なかば店員のような立場だったベーコンは、週に10ポンドの報酬と引き換えに親しい友人や有名な富裕層をレストランに招待し、好きなだけ飲むという特権を与えられたのだ。

 

実際、ベーコンのおかげでコロニー・ルームは芸術エリートたちのサロンに発展した。

 

画家のルシアン・フロイド、俳優のピーター・オトゥール、歌手のジョージ・メリー、画家のジョン・ミントン、ほかに雑誌『ヴォーグ』の写真家のジョン・ディーキンなど著名人を魅了し、クリエイティブなエリートたちの遊び場として発展していったのである。

 

ベーコンの死後もダミアン・ハーストをはじめYBAなどの若手芸術家のサロンとなったが、2008年に閉店した。

コロニー・ルーム創設者のミュリエル・ベルチャーとベーコン
コロニー・ルーム創設者のミュリエル・ベルチャーとベーコン

1950年にベーコンは美術批評家のデビッド・シルベスターと出会う。彼はヘンリー・ムーアやアルベルト・ジャコメッティ作品の評価を高めた批評家としてよく知られている。

 

シルベスターは自著でベーコンの作品を誉めたたえ、また1948年にベーコンに関する最初の批評をフランスの定期刊行誌「L'Age nouveau」に書いた。

 

この頃ベーコンは、ゴヤやクルーガー国立公園で撮影されたアフリカの風景や野生の世界に影響を受ける。ベーコンはエジプトのカイロで数日間過ごし、画商のエリカ・ブラウゼンにカルナック神殿やルクソールについて手紙を書き、その後アレクサンドリアを経てマルセイユ港へ旅行する。この旅でエジプト・アートに大変感銘を受けたベーコンは、1953年に『スフィンクスの習作』を制作する。

 

またベラスケス・シリーズの代表作である『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作』を1953年に制作。

 

1951年に乳母のライトフットが死去。ベーコンは彼女の死を聞いたときはニースでギャンブルをしていた。彼女は幼少の頃から最も親密で理解のある人だった。パリからロンドンに戻って家具デザインの仕事を始めたころ、ベーコンは彼女とエリック・オーデンを呼び寄せて一緒に生活をしていた。のちにモンテカルロに住むときもライトフットはエリック・ホールとともに呼び寄せた。

『スフィンクスの習作』(1953年)
『スフィンクスの習作』(1953年)
ナンシー・ライトフット
ナンシー・ライトフット
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の研究』(1953年)
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の研究』(1953年)

天井から落ちてきたジョージ・ダイアー


ベーコンのミューズとなるジョージ・ダイアー。
ベーコンのミューズとなるジョージ・ダイアー。

ベーコンは1964年、55歳のときに最愛の愛人ジョージ・ダイアーと出会う。

 

出会いはジョージがベーコンのアパートに泥棒として入ったこと。ジョージは盗みに失敗してアトリエの天井から落下。彼の姿を一目見て気に入ったベーコンは、警察に突き出す代わりにベッドに誘ったという。

 

要求に従ったダイアーは、その日からベーコンの絵のモデル兼愛人として、芸術家の気まぐれに奉仕することになる。当時、ダイアーは30歳でロンドンのイースト・エンド出身だった。ダイアーは犯罪癖のある家族で育ち、小さな頃から盗みで刑務所をさまよう人生だったという。

 

ベーコンの男性愛人歴は古く、初期の愛人としてよく知られているのは元パイロットのピーター・レイシーである。ピーターは暴力的でベーコンの作品を引き裂いたり、酒で酔っぱらってフランシスを殴り倒し、路上にほぼ気絶状態の彼を放置した。

 

しかし、ダイアーと出会ってから性格が変わる。ベーコンはダイアーから漂う脆弱性やお人好しな性格に惹きつけられ、一方のダイアーは自身の無教養さやギャングや社会の底辺で生きてきた出自から来る自信のなさゆえ、ベーコンの画家としての成功や自信に満ちた態度に感銘を受ける。

 

ダイアーはベーコンを「脆弱な若い男性を守る父親像」として受け入れるようになる。ダイアーは崇拝するベーコンに一歩でも近づこうとベーコンを真似るようになる。ベーコンのように渋い顔を決め、チェーンスモークやアルコールに興味を持つようになったという。

 

ベーコンの作品は1960年代なかばから初期作品群における極端な主題から友人の肖像画へ移行し始める。なかでもダイアーの肖像画はベーコン作品において特に中心的な主題となった。美術上でのダイアーの扱いは、あまり特徴的でない弱々しさを残しながら肉体的な部分を強調するものだった。

 

この時代、ベーコンは多くの友人達の肖像画を描いているが、ダイアーはベーコンが描く絵と不可分に感じるようになり、アイデンティティ、等身大、レーゾンデートル(存在意義)とさえなりはじめた。そして、ベーコンは「生と死の間の短い間奏」としてそんなダイアーを描いた。ミシェル・レリスやローレンス・ゴーイングなど多くの批評家はダイアーの肖像画作品を好意的に受け止めた。

 

ベーコンは、ダイアーをアクセサリー代わりに自分の属する世界での社交会に連れ回すようになり、今までダイアーが属していた世界、ギャングや社会の底辺で生きる人間の属する下層社会から切り離した。ダイアーは見ず知らずの富裕層の世界に突然放り込まれ、周囲からの自分に対する好奇の視線と嘲笑に耐えられなくなる。

 

セレブ社会に参加したこともあって、ダイアーはこれまでの犯罪癖をやめるようになったが、今度はアルコール依存症になった。酔っているときのダイアーは抑制できない状態で、ベーコンや周囲のハイカルチャーの人達に迷惑をかけはじめる。

 

そうして必然的に周囲のとりまきにとって厄介者となりはじめ、ベーコンからも次第に遠ざけられるようになる。1971年までにダイアーは1人で飲みはじめ、また薬物中毒にもなった。

 

1971年10月、ダイアーはパリのグランパラで開催されるベーコンの回顧展のオープニングへの出席が許されるが、ベーコンがパリのグラン・パレで生涯最高の光栄に浴しているまさにその時、ホテルで睡眠薬を大量に飲んで自殺する。

 

リュセルによれば、「ベーコンはダイアーの死だけでなく、ほかにも乳母をはじめ4人の友人を短期間に次々と失ったことに大変なショックを受けていた。この友人たちの死は、その後の彼の人生の変容に大きな影響を与えた」という。

 

外見上はストイックに見えたが、ベーコンの内面は壊れていった。ベーコンは批評家たちに内面を打ち明けなかったが、後に友人たちに「悪魔、災難、喪失」と話している。

 

葬儀の間、常習犯を含めたダイアーの友人の多くは涙を流して悲しんだ。棺桶が墓石にへ入れられるさい、友人の1人は「お前は大馬鹿者だ!」と叫んだ。ベーコンは葬儀中は静かだったが、その後、数カ月間精神的に苦しみ、身体を壊してしまった。深く悲しみ、2年後ベーコンはたくさんのダイアーの単作の肖像画や三連画を描いた。この時代に有名な作品が《黒の三連》である。

『黒の三連』(1972-1974年)
『黒の三連』(1972-1974年)

晩年


1992年マドリードを旅行中、ベーコンは病に伏せて民間病院に入院。持病の喘息は生涯彼を苦しめ、年々、呼吸器官を悪化させた。この頃になるとベーコンは会話することも難しくなり、1992年4月28日、心肺停止で死去。

 

ベーコンの遺産(約1100万ポンド)はジョン・エドワードやブライアン・クラークに相続された。

 

1998年にダブリンにあるヒューレーン・ギャラリーのディレクターは、サウス・ケンジントンのリース・ミューズ7番地にあるベーコンの混沌としたスタジオをそのままの状態で保存し、スタジオを丸ごとギャラリー内に再現している。

 

このスタジオは2001年に一般公開され、スタジオ全体はカタログ化もされた。約570冊の本、1500枚の写真、100枚のキャンバス、1300枚の本の切り抜き、2000の絵具など画材、70枚のドローイング、ほかに雑誌、新聞、アナログレコードなどなどがスタジオ内に散乱した状態になっている。