泉 / Fountain
20世紀美術の代表的作品
マルセル・デュシャンの「泉」の背景と制作について深く掘り下げることは、美術愛好家にも一般読者にも有益なことです。この記事には、彼のキュビズム絵画から「泉」の制作につながった事件などの詳細など、この間に起こったことの概要が書かれています。ダダイスム運動の効果を知り、マルセル・デュシャンの作品への貴重な洞察を得てください。さっそく、ご紹介しましょう。
目次
概要
作者 | マルセル・デュシャン |
制作年 | 1917年 |
メディウム | セラミック製男性用小便器 |
サイズ | 61 cm x 36 cm x 48 cm |
コレクション | オリジナルは消失、レプリカ複数あり |
《泉》は1917年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。
近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。
セラミック製の男性用小便器に「R.Mutt」という署名と年号が書かれ、「Fountain」というタイトルが付けられている。このタイトルは、ジョゼフ・ステラとウォルター・アレンズバーグが決めたともいわれる。
この作品は、1917年4月にニューヨークのグランド・セントラル・パレスで開催された独立芸術家協会の年次企画展覧会に出品予定の作品だった。この展覧会では、手数料さえ払えば誰でも作品を出品できたにも関わらず、《泉》は委員会から展示を拒否されてしまう。
その後、作品はアルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」で展示され、撮影され、雑誌『ザ・ブラインド・マン』上で批評が行われたが、オリジナル作品は消失している。1950年代から1960年代にデュシャンの委託によって16点のレプリカが作られ現存している。
本作は前衛芸術の美術史家であり理論家であるピーター・バーガーにより、20世紀の前衛美術の最も主要なランドマーク作品とみなされている。
2004年12月、デュシャンの《泉》は、英国の美術界の専門家500人が選んだ20世紀で最も影響力のある作品に選ばれた。第2位はピカソの《アヴィニョンの娘たち》(1907年)、第3位はアンディ・ウォーホルの『マリリンのディスパッチ』(1962年)であった。
制作と展示まで
マルセル・デュシャンは《泉》を制作する2年前にアメリカへ移住し、フランシス・ピカビア、マン・レイ、ベアトリス・ウッドらと関わりニューヨーク・ダダムーブメントの中心人物として活動していた。
1917年初頭には、デュシャンがアメリカで開催される史上最大の近代美術展「第一回独立芸術家協会展」に向けて、「チューリップ・ヒステリー・コーディネイティング」というタイトルのキュビスム絵画を制作しているという噂が広まっていた。
しかし、小便器の形をした既製品で "R.Mutt "というペンネームで署名された《泉》の出品が拒否されたことで、当時、この美術展の審査員でもあったデュシャンは、その報復としてデュシャンは展示予定だった絵画を取りやめ、またディレクターを辞任することになった。
展示委員は送られてきた《泉》を会場の仕切りの裏に置いて、カタログにも掲載しなかった。デュシャンはこのことに抗議し、展覧会の委員を辞任。この一連の出来事を「リチャード・マット事件」という。
現在、写真で残っているオリジナルの《泉》は、アルフレッド・スティーグリッツのスタジオで展示されて撮影されたもので、雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載された。
なお、オンライン・ジャーナルの「Tout-Fait」上で記者のロンダ・ローランド・シアラーは、スティーグリッツが撮影したとされる《泉》の写真は異なる写真の合成であると指摘している。
展覧会が終了したあと、オリジナルの《泉》は消失。デュシャンの伝記作家のカルヴィン・トムキンスによれば、デュシャンの初期レディメイド作品と同じく、スティーグリッツがゴミとして廃棄したと書いている。
1950年のニューヨークの展示の際に初めて、デュシャン公認で《泉》のレプリカが制作された。1953年と1963年にさらに2つの作品が制作され、その後、1964年には8個のレプリカが作られた。これらレプリカ作品は、インディアナ大学ブルーミトン、サンフランシスコ近代美術館、カナダ国立美術館、テート・モダン、パリ・ポンピドゥー・センターなどに収蔵されている。
デュシャン制作説と他者作品説
●デュシャン制作説
《泉》の制作には2つの説がある。1つはデュシャンが1人で制作したという説。デュシャンはニューヨーク5番街118番地の衛生器具店「J.L.モット鉄工所」で、標準的なベッドフォードシャー・モデルの男性用小便器を購入し、33 West 67th Streetにあるスタジオに持ち帰ったあと、通常の使用位置から90度傾け、排水口の部分が正面に来るようにし、正面に "R. Mutt 1917"と署名したという制作過程である。《泉》の制作には、画家のジョセフ・ステラやコレクターのウォルター・アレンズバーグも関与したとされている。これが、一般的に広く浸透している説。デュシャンは作品制作の意図にに対してこう話している。
「Mutt は Mott Worksという大手衛生機器メーカーの名前から来ています。しかし、Mottはあまりにも身近だったので、当時目にしていた、誰もが知っている「Mutt and Jeff」という漫画にちなんで、Muttとしました。このように、最初から、太っていてちょっと変な男のMuttと、背の高い痩せた男のJeffがからみあっていたのです......。私はどんな古い名前でもいいので、リチャード(Richard)という名前を付けました。リチャードはフランス語のスラングで「成金」という意味がある。小便器にしては悪くない名前でしょう。分かるか?貧乏の反対語の意味だ。でも、そこまでする必要はないとおもって。ただ「R.Mutt」とつけたたんだ」
●他者作品説
もう1つは、《泉》の作者はデュシャンではないという説。本来は独立芸術家協会に出品予定だった女性芸術家の友達の作品を手助けしたものだったという。1917年4月11日付けの妹シュザンヌに宛てた手紙で、デュシャンは《泉》の出品に関する経緯を書いている。そこには「「リチャード・マット」という男性のペンネームを使って、私の友人の一人が私に彫刻作品として送ってきた」と記載されていた。
デュシャンは決して協力した人物を公表することはなかったが、現在2人の人物が真の作者として考えられている。1人は同じニューヨークの女性ダダイストのエルザ・フォン・フライターク・ローリンホーヴェン。彼女の美術的価値や作品はデュシャンのレディ・メイドと極めて似通っている。
もう一人はルイズ・ノートン。彼女は1917年に発行された『ザ・ブラインド・マン』第2号の誌上に泉に関する解説文を執筆したとされる人物。彼女は当時、夫と離婚して両親とニューヨーク西88番街のアパートに住んでいた。この住所はスティーグリッツの写真で見られるが、オブジェ横に付いている入場券の紙に記載されている住所と同じであるという。
結局、デュシャンが考えて一人で作ったのか、他人の作品をアシストして出品したものなのかよくわかっていない。
レディ・メイドの制作意図
1917年5月に、雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号でデュシャンは匿名で抗議文を投稿し、そこに《泉》の作品意図を寄稿している(しかし、この文章を書いたのはデュシャンではなくルイズ・ノートンと見られている)。
『ザ・ブラインド・マン』とは、アンリ=ピエール・ロシェ、ベアトリス・ウッドと発行していた雑誌で、ダダイスムの情報誌のようなものだった。雑誌では次のような抗議文が匿名で掲載された。
「リチャード・マット事件。6ドルの出品料を払った作家は誰でも出品できるという。リチャード・マット氏は《泉》を送った。この品物は間違いなく消え失せ、金輪際陳列されなかった。マット氏の《泉》を拒否する根拠は何であったか。
(1)ある連中はそれが不道徳で卑俗だと主張した。
(2)別の連中はそれが剽窃であり、たんなる衛生器具にすぎないと主張した。
さて、マット氏の《泉》は不道徳ではない。そんなことはばかげている。浴槽が不道徳でないのと同じだ。それは衛生器具屋のショー・ウインドウで毎日見かける設備である。
マット氏が《泉》を自分の手でつくったかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのである。彼は生活の中の日常的な品物をとりあげ、新しい題名と新しい観点のもとでその有用な意味が消え去るように、それを置いたのである。
つまり、あの物体に対する新しい思考を創り出したのだ。衛生器具云々というのはまったくお笑いぐさである。アメリカが生み出した芸術品といえば、衛生器具と橋だけではないか」
この抗議文を書いたのはデュシャンとされているが、実際はルイーズ・ノートン、ベアトリス・ウッドなど当時の編集スタッフらで書かれたものとみられている。ただし、デュシャンのレディ・メイドの意図に関してははっきりと表明されている。
レディ・メイドの意図は以下の3点になる。
- 選択という行為
- 日常的な機能の剥奪
- 新しい思考の創造
「選択」-偶然性と中立性を高める
真の制作者が誰なのかともかく、《泉》の意義を考えてみよう。
●選択という行為
デュシャンは泉の制作について、まず趣味という問題を試験してみるところから生まれたと話している。デュシャンの趣味というのは「視覚的に無関心」なオブジェである。全く人の気をひかないものを選ぶというのがデュシャンの趣味で、その延長で男性小便器が選択されている。「偶然性」の実験と「中立性や公平性」を高める態度を象徴する。
「わたしの”泉”=”便器”は、趣味という問題を試験するという考えから生まれた。つまり、全く好かれそうもないものを選ぶということだった。便器を素晴らしいと思う人は、およそ、いないだろう。つまり危険なのは「芸術(アート)」という言葉なのだ。「芸術」といえば、本当は、なんだって芸術を思わせることができるのだ。それで、レディ・メイドとして選択されるオブジェのポイントは、私にとって視覚的に魅力的でないオブジェを選ぶことでした。選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。(マルセル・デュシャン)」
すなわち、選択行為とは精神の客観的な状態、個人的な趣味を停止した状態で行わねばならない。言い換えれば、もしレディ・メイドとともに、つくることが選ぶことにとって代わるのであれば、意図とともに選ぶこともまた無関心とともに選ぶことに取って代わらねばならない。デュシャンの解釈では、選択とは芸術家の、あるいは彼の感情、好み、そして欲望などの個人的な側面を反映したり、表現したりしてはならないものなのだ。
こうした意図のもと、普段見ているモノに対して「新しい思考」の創出をデュシャン提示した。この考え方は後にデュシャンの意図とはともかく、コンセプチュアル・アートやポストモダンアートへと発展し、このデュシャンの「新しい思考」の創出というのが現代美術の基本的なルールになる。
芸術の概念を「物質的な工芸(ハンドメイド)」から「知的な解釈」に変えるとともに、「選択」という行為、それに付随する観念が重要になった。
日常的な機能の剥奪-オブジェクトからアートへ
●日常的な機能の剥奪
デュシャンは本来であれば有用であるものを選んだ。その代表が日常的品物だった。日常的品物で本来は有用である便器をとりあげ、新しい題名「泉」と新しい視点のもとで、本来の意味を消え去るように展示した。
「便器を日常の文脈から引き離して、芸術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」が重要である。この考え方は、シュルレアリスムのコラージュやポップ・アートと同じものとおもえばよい。
コラージュは、雑誌から切り抜いた素材を使って新しい視覚芸術を創造するための錬金術といわれている。ポップ・アートもまた新聞、雑誌、広告、写真など身近な大衆メディアや日用品を活用したことで「これが芸術?」というような文脈から現れた。レディ・メイドも同じである。
ルドルフ・E・クエンツリは、『ダダとシュルレアリスム映画』(1996年)の中でレディメイドについて次のように述べている。
「オブジェクトの機能的な場所のこの脱文脈化は、オブジェクトに付与された設定と位置の選択によって、その芸術的な意味の創造に注意を喚起する」
続けてオブジェクトに名前をつけること(タイトルをつけること)の重要性を説明している。物体の選択、タイトル、そしてそれが「通常の」位置や場所からどのように変更されたか、という三つの要因が少なくとも関わっている。
今回の展覧会では、小便器を台座に置くことで、作品のような錯覚を起こしていた。
そのほかの解釈
●美術の作者は鑑賞者
「泉」はまた、美術の作者は美術家ではなく鑑賞者であることを提示した。本来「美術の作者は美術家」であり、そして鑑賞者は美術家の意図を理解するというのが常識的な見方だった。
そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に投入。すると本来何もメッセージも視覚的に面白くもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使って、作者の意図が分からないようにしていた。
●古典絵画のマリアや座禅を組んだ仏陀
「泉」は展示されなかったこともあり、制作関係者以外に実物を見た人はほとんどおらず、アルフレド・スティーグリッツが撮影した唯一の写真でのみ確認できる。特定の角度で映された便器をよく見ると、その緩やかな曲線と形から隠されたヴェールを付けたの古典絵画のマリアや座禅を組んだブッダの彫刻、ほかにブランクシーのエロチックな形態の彫刻を連想させる。
●独身者
また便器を「泉」と付けた経緯だが、泉は独身者にも置き換えられる。この小便器に向かって放尿すると、それは手前の穴から流れでて、その人自身に尿のとばっちりが及ぶことになる。これは鏡の反射を表している。満たされることのない欲望を抱えた独身者たちがそれに向かって性器を露出し、同時に、性器から放出される液体を受け止め、受け止めた液体がまた穴から戻ってくる。自己愛でありオナニズムである。
またデュシャンはこのようなメモ書きを残している。
「これしかない。雌としては公衆小便所、そしてそれで生きる。」
実際に評価されたのは第二次世界大戦後
デュシャンがアメリカで評価されはじめたのは戦後1950年代からで、アーティストへの影響力は飛躍的に高まっていった。
『ライフ』誌は、1952年4月28日に発表された長い記事の中で、彼を「おそらく世界で最も著名なダダイスト」、ダダの「精神的指導者」、「ダダの父」と呼んだ。 50年代半ばまでには、デュシャンのレディメイドはアメリカの美術館のパーマネント・コレクションに展示されていた。
1961年、デュシャンはダディストの仲間であるハンス・リヒターに手紙を書き、その中でダダとネオ・ダダの違いを次のように述べている。
「ネオ・ダダは、ニュー・リアリズム、ポップ・アート、アッサンブラージュなどと呼ばれてますが、彼らはダダがしてきた手法を軽々と使っています。私がレディメイドを発見したとき、私はこれまでの美学を否定しようとした。ネオダダは私のレディメイドを持ち上げ舞楽を発見しました。私はボトルラックと小便器を彼らの顔に挑発するように投げ込みますが、今や彼らはそれらを賞賛します」
しかし、デュシャンは1964年にポップ・アートを好意的に書いているが、ポップ・アーティストのユーモアや素材には無関心だった。
「ポップアートとは、シュルレアリスムを除けば、クールベ以降、網膜画を支持して事実上放棄された「コンセプチュアル」な絵画への回帰である。キャンベルのスープ缶を手に取り、それを50回繰り返すならば、網膜画には興味がないだろう。興味があるのは、キャンベルスープの缶を50個、キャンバスの上に置きたいという概念である」