アメリカ現代美術史3「世界大恐慌とアメリカの美術家支援」
連邦美術計画と亡命芸術家(1930s〜1940s)
概要
20世紀初頭におけるアメリカにおける「アートは」常に大衆のものであり、決してアカデミズムや富裕層の財ではなかった。
世界恐慌時の「連邦美術計画(FAP)」(1935-43年)は、1930年代の不況期におけるニューディール政策の一環として打ち出されたアメリカの視覚芸術に対する支援プロジェクトである。
連邦美術計画のナショナルディレクターだったホルガー・ケイヒルのもと、公共事業促進局(WPA)の5つの「連邦計画第一」の1つとして進められた最も大きなニューディール芸術計画である。
文化的活動び奨励策ではなく、仕事を失った芸術家や職人たちを雇い、壁画、イーゼル絵画、彫刻、グラフィックアート、ポスター、写真、演劇の背景デザイン、芸術品や工芸品を生産する救済策として制定された。
WPAの連邦美術計画は、全国に100を超えるコミュニティアートセンターを設立し、アメリカのデザインを調査・文書化し、コンテンツ内容や主題を制約することなく大部分のパブリックアートを委託し、大恐慌の間、約10000人の美術家や工芸作家たちを支えた。
民主主義精神の最高の伝統を強調する実用的な公的芸術支援プロジェクトとして美術史に記録されている。
この国による積極的な芸術家の支援対策により、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングといった第二次世界大戦後のアート・ワールドを牽引する芸術家たちが育った。またヨーロッパからも美術家の流入があった。その中には、戦後のアメリカ美術の隆盛とヨーロッパ美術の影響からの脱出(抽象表現主義など)を成し遂げた作家たちがいる。
この計画によりアメリカの街角に「パブリック・アート」と呼ばれる、記念碑とも違う、町を装飾し生活に彩りを与え、さまざまな思索を誘うための彫刻群が多く建つようになった。この成果は、戦後、新築ビルに建築費の1パーセントをパブリック・アートに使うよう義務付ける条例などにつながってゆく。
アメリカ建国以前から今日にいたるアメリカの各地の風俗に関する調査と視覚的な記録の集大成である『アメリカのデザインの総目録』の作成は、のちのち、アメリカの美術・デザイン関係者や歴史学者の制作・研究を助ける貴重な資産になった。
重要ポイント
- 世界大恐慌における芸術家たちの救済策
- 公的芸術支援として最も成功したことで知られる
- 抽象表現主義を育てのちのアート・シーンの礎となった
連邦美術計画のドキュメンタリー映像
背景
抽象表現作家の活動を支えた「連邦美術計画」
1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。
WPA(公共事業促進局)は、失業した芸術家たちを救済するため公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。
「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。
連邦美術計画はアメリカ全州で100以上もの芸術コミュニティセンターを設立。10000人以上の芸術家が連邦美術計画から依頼を受け、地方自治体の芸術コミュニティセンターで作品を制作・展示したり、また自治体の建物を装飾や美術の教育活動を行った。当時、芸術家に支払われた賃金は週給23.60ドルだったという。
この時代、1930年代から1940年代の頃のアメリカでは、まだ一般的に抽象芸術は美術とみなされていなかったが、WPAのプログラムでは具象作家と抽象作家を区別せず支援していたといわれる。
その結果、連邦美術計画はジャクソン・ポロックやデ・クーニングをはじめ、のちの抽象表現運動を支援することになり、最終的に彼らはアメリカを代表する芸術家まで成長した。連邦美術計画のサポートがなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。
また1920年代から1930年にかけて近代美術の美術館が多数創設される。1929年にニューヨーク近代美術館、1931年にホイットニー美術館、1939年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館が設立。
これらの近代美術を促進するためのインフラストラクチャーは、ニューヨークで美術の情報やアイデアを発表、交流する場として重要な役割を担った。近代美術に関する教育も始まっていた。
特に1933年から1958年までニューヨークの美術学校で教鞭をとったドイツの画家ハンス・ホフマンは巨大な影響力を持っていた。
ミルウォーキー手芸プロジェクト
特に成功したのは、1935年に失業者と分類された900人を雇用から始まったミルウォーキーの手芸プロジェクトだった。このプロジェクトでは、約5000人の未熟練労働者を雇用した。多くは女性で長期失業者だった。
歴史家のジョン・グルダによると、1933年に市の失業率が40%に達し、その年、ミルウォーキーの固定資産税の53%は納税する余裕がなく支払われなかったという。
プロジェクトで雇われた労働者は製本、ブロック印刷、デザインなどを学び、そのスキルでハンドメイドのアートブックや子ども向けの本を制作した。また、おもちゃ、人形、舞台衣装、キルト、絨毯、カーテン、壁掛け、家具を制作してそれらは学校や病院が購入した。
2014年、ウェスコ新美術館がミルウォーキー手芸プロジェクトで生産された製品の展覧会を開催した際には、ミルウォーキー公共図書館で現在も使われている当時の家具が見つかった。
『アメリカン・デザインの総目録』作成
『アメリカン・デザインの総目録』は、アメリカの祖先の文化や美術を研究し、記録保存するための取り組みとして考案された図版集である。
植民地時代から1900年までのアメリカの民俗および装飾芸術オブジェクトに関する18,257枚の水彩画で構成されている。935年から1942年にかけ400人の芸術家たちが参加した。
目録制作に携わった芸術家たちは、細心の注意を払って約18000の水彩画を制作し、また大部分の匿名芸術家たちが制作した物資文化を文書化した。
『アメリカン・デザインの総目録』に収録された図版を見ると、この国の物質文化の最初の200年を作りあげた手工芸から、粗野な創造的本能とフロンティア文明の荒々しい活力以上のものを表現していることがわかる。総目録はアメリカ各地にあるある何千もの性質を収録し、アメリカの手工芸の物語を記録し、その物語内で理解可能なパターンを形跡を知る内容となっている。(ホルガー・ケイヒル,連邦美術計画ナショナルディレクター)
総目録の対象となったオブジェクトは、家具、銀、ガラス、石器、織物、居酒屋の看板、船首像、葉巻店のフィギュア、カルーセル馬、おもちゃ、道具、風見板にまで及んだ。公的機関、地元の博物館、大規模な私的コレクション、貧しい家など、さまざまな場所から対象となるオブジェクトが集められた。
写真は芸術家たちがオブジェクトの形態、色、特性、材質を正確かつ事実性をよりよく伝えるために、限られた範囲でのみ使用された。
「ノスタルジーや古物商ではない」と歴史家のロジャー・G・ケネディは書いている。「インダストリアル・デザインに影響を与えることを目的として、抽象デザインを専門としたモダニストたちによって開始された。
したがって、多くの点において、ニューヨークにおける近代美術館の設立哲学と並行して『アメリカン・デザインの総目次』プロジェクトは進められた。
全WPAプログラムと同様に、プロジェクトには雇用を創出するという目的が第一にあった。また、プロジェクトの意義としては、ずっと研究されないままで失われ危険にさらされてきた歴史的に重要な資料を特定し記録することにあった。
ナチスの弾圧で亡命してきた前衛芸術家
大恐慌時代にドイツでナチスが政権を握り、前衛芸術家たちの弾圧が始まると、多くのヨーロッパの芸術家たちがアメリカへ亡命し始める。
ヨーロッパを去り、アメリカへ移住した重要な芸術家として、抽象絵画ではピート・モンドリアン、シュルレアリストではイブ・タンギー、アンドレ・マッソン、マックス・エルンスト、アンドレ・ブルトン、キュビスムではフェルナン・レジェなどがいる。
亡命芸術家のなかでも特にシュルレアリストたちは、のちのアメリカ現代美術の創生に多大な影響を与えた。無意識にアクセスするオートマティックという手法は、ジャクソン・ポロックやそのほかの抽象表現表現主義作家のインスピレーション元となっている。
ヨーロッパの前衛芸術のコレクターでありサポーターであったペギー・グッゲンハイムは、亡命芸術家たちアメリカでの活動を支え、美術教育にも影響を与えた。彼女は当時、マックス・エルンストの妻であった。彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。
グッゲンハイムは、1942年ニューヨークに新しいギャラリー「今世紀の芸術」画廊を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。
グッゲンハイムは、アメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。
また、イブ・タンギーの妻であるケイ・セージはアメリカ出身の富裕層で、グッゲンハイムと同じく亡命芸術家を支えた。アンリ・マティスの息子ピエール・マティスは、ニューヨークで画廊を開き、亡命芸術家たちの展覧会を積極的に開催した。
ナチスの前衛芸術家の弾圧がなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。
連邦美術計画のおもな芸術家
・アーシル・ゴーキー
・リー・クラスナー
・鈴木盛
・ルフィーノ・タマヨ
・ウィリアム・アッベンセス
・ベレニス・アボット
・アイダ・ヨーク・アベルマン
・ガートゥルード・アバクロンビー
・ベンジャミン・アブラモヴィッツ
・エイブ・エージェイ
・イヴァン・オルブライト
・マクシーン・アルブロ
・チャールズ・オールストン
・ハロルド・アンベラン
・ルイス・アレナル・バスター
・ブルース・アリス
・ビクター・ミハイル・アルノートフ
・ジョゼフ・バコス
・ヘンリー・バナーン
・ベル・バランチェアヌ
・パトロシーニョ・バレラ
・ウィル・バーネット
・リッチモンド・バルテ
・ヘルベルト・バイヤー
・ウィリアム・バジオテス
・レスター・ビール
・ハリソン・ベゲイ
・デイジー・モード・ベリス
・レイニー・ベネット
・アーロン・バークマン
・レオン・ビベル
・ロバート・ブラックバーン
・アーノルド・ブランチ
・ルシール・ブランチ
・ルシエン・ブロッホ
・アーロン・ボーロッド
・イリヤ・ボロトウスキー
・アデル・ブランダイス
・ルイーズ・ブラン
・エドガー・ブリットン
・マニュエル・ブロムバーグ
・ジェームズ・L・ブルックス
・セルマ・バーク
・サミュエル・アドルフ・カシュワン
・ジョルジオ・カバロン
・ダニエル・チェレンターノ
・デイン・チャナセ
・フェイ・チョン
・クロード・クラーク
・マックス・アーサー・コーン
・エルジエ・コーター
・アーサー・コーベイ
・アルフレッド・D・クリミ
・フランシス・クリス
・アーラン・クライト
・ロバート・クロンバッハ
・ジョン・スチュアート・カレー
・フィリップ・キャンベル・カーティス
・ジェームズ・ドーハーティ
・スチュアート・デイヴィス
・アドルフ・デーン
・バーゴイン・ディラー
・イサミ・ドイ
・メーブル・ドワイト
・ルース・エグリ
・フリッツ・アイヘンバーグ
・ジェイコブ・エルシン
・ジョージ・パース・エニス
・アグナ・エンタース
・フィリップ・エバーグッド
・ルー・フェルシュタット
・アレクサンダー・フィンタ
・ジョゼフ・フレック
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Federal_Art_Project、2020年3月10日アクセス
・http://www.popbox.jp/ART/Blog/entori/2014/8/9_kadamofederaruwan_shi_dong_HECP-xiaosana_zhu_ju_ji_hua_homuerekutoronikusukafepuroguramu.html、2020年3月10日アクセス
・https://www.nga.gov/features/exhibitions/outliers-and-american-vanguard-artist-biographies/index-of-american-design.html、2020年3月10日アクセス