M. C. Escher / マウリッツ・コルネリス・エッシャー
幾何学性グラフィック・アートの巨匠
概要
マウリッツ・コーネリス・エッシャー(1898年6月17日-1972年3月27日)は、オランダのグラフィック・アーティスト。通称はM.C.エッシャー。ウッドカット、メゾチント、リトグラフなどの形式で、計算し尽くした幾何学的な絵を描くことで知られる。
エッシャー作品は、特に幾何学的オブジェに焦点が置かれたものとなっており、不可能図形、無限空間、鏡映、シンメトリー、透視図、星型多面体、截断図、双曲幾何学線、平面充填形などの数学的手法をもちいて絵画空間が構成される。
エッシャー自身はそれほど数学的能力はなかったとされているが、ジョージ・ポリア、ロジャー・ペンローズ、ハロルド・コクセターといった当時の数学者や結晶学者のフリードリヒ・ハーグらから影響を受け、彼独自のテセレーションの研究をしていたと考えられている。
エッシャーの初期作品は、自然、虫、風景、菌類などの植物などからインスピレーションを得て作品を制作していたが、イタリアやスペインを旅行をしてイスラム建築であるアルハンブラ宮殿やモスクのタイル壁に影響を受けたのをきっかけに、幾何学構造に関心を移し始める。
エッシャーの作品は、芸術業界よりも科学者や数学者や大衆文化で注目を集めていた(現在でも美術史でエッシャーの名前は出ることはほとんどない)。アメリカの数学者マーティン・ガードナーがアメリカの科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』の1966年4月号のコラムでエッシャーを紹介したのが、エッシャーが学者や一般大衆のあいだに知られるようになったきっかけだとされている。
さまざまな技術誌で紹介されることは別にエッシャーの作品は、多くの本やアルバムのカバーとして芸術的な文脈で使われることがある。ダグラス・ホフスタッターの1979年の著作物『ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環』の創作に最も影響を与えた一人である。
略歴
若齢期
マウリッツ・エッシャーは1898年6月17日、オランダのフリースラント州レーワルデン、現在はプリンセスホフ陶芸美術館の一部となっている家で生まれた。
父は土木技術者の父ジョージ・アーノルド・エッシャー、母のサラ・グレイマンはジョージの二番目の妻で、エッシャーは5人兄弟の末っ子だった。1903年に家族はアルンヘムに移り、エッシャーは1918年までこの地域の小学校と中学校に通った。
エッシャーは病弱な子どもで、7歳のときに特殊学校に入れられ、二年生のときに落第した。当時から絵を描くことは得意だったが、一般的な学科成績は良くなかったという。また13歳まで大工仕事の手伝いやピアノ教室に通っていた。
1918年にエッシャーは、ハールレムにあるハールレム建築装飾美術学校に通う。そこでエッシャーはドローイングやウッドカットを学ぶ。また真面目に建築学を勉強したものの、成績があまりよくなかったため(皮膚が弱かったためだっと言われる)、装飾芸術の方向へ転校する。そこでサミュエル・メスキータと出会い、交友を深める。1922年にエッシャーはドローイングやウッドカットを学んで卒業する。
アルハンブラ宮殿に感銘
1922年、エッシャーがイタリアやスペインを旅行しているときに人生の転機が訪れる。
イタリアの田園地帯やアルハンブラ宮殿、そしてグラナダにある14世紀のムーア城に感銘を受ける。特にアルハンブラ宮殿の石の壁や天井に、パターン化され繰り返し描かれているシンメトリー構造の幾何学装飾美術は、後のエッシャー作品に強烈な影響を与えることになった。この旅行以後、エッシャーは何度もアルハンブラ宮殿へ訪れている。
1923年から1935年までエッシャーはローマへ住む。イタリア滞在中にイエッタ・ウミカーと出会い、1924年に結婚。1926年には長男ジョージ・エッシャーが生まれる。のちにイエッタはアーサーとジャンの二人の子どもを産んでいる。
エッシャーはイタリア中を頻繁に旅行していた。1926年にヴィテルボ、1927年と1929年にアブルッツォ州、1928年と1933年にコルシカ、1930年にカラブリア州、1931年と1934年にアマルフィ海岸、1932年と1935年にガルガノとシチリアへ旅行しているが、これらの街並みや風景は彼の作品に色濃く影響している。
1936年5月と6月にエッシャーはスペインに戻り、アルハンブラ宮殿を再訪し、モザイク模様の緻密なドローイングを制作している。このときにエッシャーはテセレーションに付随する強迫観念性に魅了される。
エッシャーの初期作品は風景画や自然画だった。昆虫のスケッチ画も多数描いている。エッシャー的な作風が現れ始めたのは1922年の木版画作品の「8つの頭」で、これは結晶学とムーア人のモザイクから着想を得た平面の正則分割作品である。
アルハンブラで作成したスケッチは、その時から彼の仕事において主要な源泉を形成することになった。またコルドバのムーア式モスクであるメスキータ建築を学ぶ。この頃がエッシャーのフィールドワークの最後で、1937年以後はスタジオでの屋内制作が中心になる。エッシャーの作品は自然や建築を写実的に詳細に描く作風から、幾何学的分析とエッシャーの視覚的イマジネーションをともなう作風へ変化した。
エッシャー的魔術的空間の開花
1935年、イタリアでムッソリーニが政権が台頭すると、エッシャーはファシズムの狂信性や偽善を嫌っていた。エッシャーは政治には関心がなかった。自分自分の特定のメディウムを通じて自分自身の概念を表現以外で、理想の自分を関与させることは不可能だと考えていた。
また9歳の息子が学校でバリラ制服を強制的に着せられていたのも気に入らなかった。そうした理由からエッシャー一家はイタリアからスイスへ移ることになった。しかし、移動先のスイスでは不幸な事ばかり起きたため、1937年に家族はベルギーのブリュッセル郊外へ移る。
1935年にオランダ郵便局はエッシャーがデザインした準郵便切手を採用する。1949年に再びはオランダの切手をデザインした。
ベルギー時代にエッシャーは、エッシャー的な版画作品を制作しはじめる。それ以前はおもに風景画が中心だった。
1937年の《静物と街路》はエッシャー自身の内面イメージを表現したもので、エッシャーの透視法の最も基本的な作品であるといわれる。机を通して部屋が街路とつながるというもので、風景画と静物画の融合が斬新だった。1938年には、鳥の絵と魚の絵が少しずつ入れ替わるダブルイメージ的でだまし絵「空と水 1」を制作。
第二次世界大戦が勃発すると、今度はオランダのバールンへ移動、そこでエッシャーは1970年まで過ごした。エッシャーの代表作品の多くはオランダで第二次世界大戦以後に制作されている。雨がよく降り、曇り空の多い日が多いオランダの気候はエッシャーと相性がよく、作品制作に没頭できたようだ。
1953年以後、エッシャーはよく公衆の前で講義を行うようになる。1962年に北アメリカで定期的な授業を持つ計画があったが、病気のため授業は中止し、一時期、作品制作も停止することになった。しかし講義のためのイラストレーションやテキストはのちに一部は出版された。1955年にオレンジナッソー騎士団の授与を受けた。
晩年
1969年7月に完成した「ヘビ」がエッシャーの最後の作品である。これは3回転対称図を基盤とした巨大な蛇がリングのようなパターンで描かれたウッドカット作品で、エッシャーのシンメトリーや連鎖パターンへの偏愛を要約するものであり、またエッシャーの人生の終焉において無限へのアプローチを表現するものである。
エッシャーは1970年にオランダのラーレンへ移り、芸術家を引退する。1972年3月27日、73歳で死去。バールンの新墓地へ埋葬された。
■参考文献