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【美術解説】エルンスト・クリムト「若くして亡くなったクリムトの弟」

エルンスト・クリムト / Ernst Klimt

若くして亡くなったクリムトの弟


エルンスト・クリムト(1864年1月3日-1892年12月9日)は、オーストリアの歴史画家、装飾画家。グスタフ・クリムトの弟。

 

ボヘミア出身の金版画家エルンスト・クリムト(1834-1892)の7人の子どもの3男で、非常に謙虚な環境の中で育てられた。

 

1877年、わずか13歳で兄クリムトが1年先に入学していた応用美術大学の学生となる。

 

二人は装飾画家で彫刻家のフェルディナンド・ラウフベルガーに師事し、いくつかのプロジェクトで彼のアシスタントを務めることになった。

 

また、当時のウィーン最高の歴史画家であるハンス・マカルトに紹介され、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とその妻エリザベートの銀婚式を祝う行事「マカルト・フェストツーク」に参加した。

 

ラウフベルガーの死後、1881年に兄グスタフ、学生時代の友人フランツ・マッチとともに「芸術家組合」を設立し、2年後に自分たちのスタジオを開く。

 

ライヒェンベルク、カールスバッド、フィウメの劇場のカーテンや天井画などの制作をこなした。ほかに、ヘルメス荘の天井画や、新ブルク劇場の階段室のフレスコ画も制作している。

 

1890年には、マカルトが数年前に完成させなかった美術史博物館の階段の絵画を完成させた。エルンストにとって最大の単独依頼は、モントゼー城とルーマニアのペレシュ城であった。

 

1891年、グスタフの友人エミーリエ・フレーゲの妹ヘレーネ・フレーゲ(1871-1936)と結婚し、同じくヘレーネという名の娘をもうけた。

 

しかし、心筋炎が原因で、突然の死が訪れた。兄グスタフは妻ヘレーネと娘ヘレーネの世話をし、未完成の絵を完成させた。

 

2人の会社は正式に解散したが、グスタフは1900年までマッハと仕事上の付き合いを続けた。

 

エルンストは、バウムガルトナー・ フリードホーフに埋葬され、わずか数ヶ月前に亡くなった父の隣に埋葬された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Klimt、2023年1月5日アクセス