【美術解説】ドナルド・ジャッド「ミニマリズム」

ドナルド・ジャッド / Donald Judd

近代純粋彫刻の創造者


「無題」(1989年)
「無題」(1989年)

概要


生年月日 1928年6月3日
死没月日 1994年2月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 彫刻
スタイル ミニマリズム
公式サイト

ドナルド・ジャッド財団

デビッド・ズワイナーギャラリー公式ページ

MoMA公式ページ

ドナルド・クラレンス・ジャッド(1928年6月3日-1994年2月12日)はアメリカの美術家。ミニマリズム・ムーブメントの中心的人物であり(彼自身はミニマリズムという言葉を否定している)、戦後のアメリカ美術に最も変革をもたらした芸術家の1人。

 

ジャッドはこれまでのヨーロッパの彫刻の表現を根本的に変革し、近代彫刻の新しい流れを決定づけた事で一般的に知られる。アルミニウムやコルテン鋼など産業素材と呼ばれるものを芸術に導入し、抽象的な彫刻を制作。色彩、形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求した。

 

ジャッドは、これまでの物語や象徴のための芸術を脱して、制作された物体が周囲の環境と関係づけられずに、作品が自律する純粋芸術を目指した。そのため作品にタイトルを付けることはなくほとんどが「無題」であり、また、キュレーターの企画によって作品が意味づけられて展示したり、時代を俯瞰する展覧会への出品を拒否していた。

 

ジャッド自身はミニマル・アートとのレッテルを貼られることに対して否定的だったが、一般的には「ミニマリズム」の代表者とみなされており、またミニマリズムの重要な美術理論書「明確な物体(スペシフィック・オブジェ)」(1964年)の著者として認識されている。

 

なお、ジャッドは『アーツ・イヤーブック8』の中で、自身がミニマリズムと認識されることに対して批難している。

 

「新しい立体作品は、ムーブメントや流派、スタイルをなしていない。共通点とされるのがあまりに大雑把であり、ムーブメントとして定義するには共通点が少なすぎる。類似点よりも相違点の方が大きい」

重要ポイント


  • ミニマリズムの代表的な芸術家(自身は否定)
  • 素材に産業素材を用いた
  • 環境や言葉に従属せず作品単体として自律する純粋芸術を追求した
《無題》1968年
《無題》1968年
《無題》1991年
《無題》1991年

略歴


若齢期


ドナルド・ジャッドは、1928年6月3日、アメリカ、ミズーリ州エクセルシオール・プリングスで生まれた。10代半ばまでに6度の転居を経験。教師の勧めで11歳の時に美術教室に通い始める。高校卒業後、1946〜47年に軍隊生活で朝鮮戦争に参加する。

 

1948年にウィリアム・アンド・メアリー大学で哲学を学ぶ。1949年にニューヨークの美術学生連盟の夜間クラスで絵画を学び、昼はコロンビア大学の一般教養学部で哲学を学んだ。論理実証主義やプラグマティズムに傾倒し、哲学の学士を取得している。

 

1950年代には絵画に取り組んだが、この時期の風景画や風景に基づく抽象絵画は、カタログ・レゾネ(全作品目録)には収録されていない。

 

1952年にニュージャージーで最初のグループ展を開催し、1957年にニューヨークのパノラス・ギャラリーで抽象表現主義の初個展を開催するも、自作に不満を抱える。1950年台なかばから1961年まで、ジャッドはウッドカットのメディウムを研究を始めたのをきっかけに、ますます抽象的なイメージの方向へ進んでいった。

 

最初に有機的な丸みを帯びた形を彫り、その後、直線や角度の丹念な職人技へと移行し、具象的なイメージから抽象的なイメージへと徐々に移行していった。

 

彼の芸術的なスタイルはすぐに幻想的なメディアから離れ、物質性が作品の中心となる構造物になった。展示する価値があると考えた作品の展覧会まで、彼は再び個展を開催することはなかった。

 

明確な物体


「無題」1962年
「無題」1962年

アーティストとしての活動のかたわら、57〜62年にかけてコロンビア大学の修士課程でメイヤー・シャピロらのもと美術史を学ぶ。ルネサンス建築から20世紀美術まで幅広く研究した。

 

 

1959年から1965年までは、アメリカの主要な美術雑誌に美術評論を執筆することで生活していたという。

 

在学中から美術雑誌『アーツ』誌に展覧会評を書いて収入を得る。抽象表現主義以後の展開へもさかんに言及。きわめて旺盛な活動により批評家として一定の認知を得るようになる。

 

この頃から、ジャッドは従来の物語的な絵画様式から離れ絵画の物質そのものが自律する方向へ移行し始めた。

 

62年に絵画制作をやめ、レリーフ状の作品、さらに床に置かれる自律した作品の制作を始める。62年に木とパイプを組み合わせ、メッキを施し、もしくは金属を用いて床面に設置する箱型の作品を制作した後、箱型を発展し上積みして構成する「スタック(=積み重ね)」「ボックス」、特定の数列に基づいて構成される「プログレッション(=数列) 」作品のシリーズへと発展して行く。

 

以後30年間のその独自のスタイルにこだわり続けた。これらの作品は63年末から始まったグリーン・ギャラリーでの個展は発表された。

 

1964年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表。エッセイでジャッドはアメリカ現代美術の新しい領域のスタート地点を発見し、また同時にこれまでのヨーロッパ的な美術価値観を拒否した。

 

ジャッドによれば、当時ニューヨークで活躍していたH.C.ウェスターマン、ルーカス・サマラス、ジョン・チェンバレン、ジャスパー・ジョーンズ、ダン・フラビン、ジョージ・アール・オートマン、リー・ボンテクーなどの芸術家たちの作品にアメリカ現代美術の価値が見られると指摘している。

 

ジャッドが制作した作品は、当時は絵画でも彫刻でもない位置にあり、実際には彫刻と呼ぶことを拒否し、彫刻ではなく、工業的なプロセスを用いた小さな製造者によって制作されたものであることを指摘した。

 

1966年にニューヨークのユダヤ博物館で開催された画期的な展覧会「Primary Structures」に2つの作品を出品し、そのパネルディスカッションでは、「本物の芸術家は自分たちで芸術を作る」というマーク・ディ・スヴェロの主張に異議を唱えた。ジャッドは「結果が芸術を生み出す限り、方法は重要ではない」と答えました。

 

ジャッドは初期の作品は自分で(父ロイ・ジャッドとのコラボレーションで)制作していたが、1964年には図面をもとにプロの職人やメーカー(工業メーカーのバーンスタイン・ブラザーズなど)に製作を委託するようになった。

 

1965年に初めて「スタック」が制作され、床から天井まで同型の薄い箱状の鉄の立体が縦一列に並べられた。

 

以後、ジャッドの作品の大半は「明確なオブジェ」で解説されたようなシンプルな構造で、空間と空間の使い方を追求した反復した形態で、素材には金属やプレクシグラス、工業用塗料、コンクリートといった素材が使われている。それらの作風は一般的に「フロア・ボックス・ストラクチャー」と呼ばれることがある。

 

 

1968年、ジャッドはスプリング・ストリート101番地に1870年にニコラス・ホワイテが設計した5階建ての鋳鉄製の建物を7万ドル以下で購入し、ニューヨークの住居兼アトリエとした。

 

また、そこで美術館やギャラリーに展示するのと同じように自身の作品を常設展示をし始めた。ジャッドは展覧会での一時的な展示は、キュレーターによって構成されているため、キュレーターの介入が入らないような状態にしたかったという。ジャッドにとって芸術と建築にとって一番良いのは、それが描かれ、置かれ、建てられた場所に永久に留まることだという。 

 

その後25年間、ジャッドはこの建物を一階ずつ改装し、時には自分が購入した作品や他のアーティストに依頼した作品を設置することもあった。

 

1968年、ホイットニー美術館では、初期の絵画を含まない彼の作品の回顧展が開催された。

成熟期


70年代初頭、ジャッドは家族で毎年バハ・カリフォルニアへの旅行を始める。清潔で何もない砂漠に影響を受けた彼は、この土地への強い愛着を一生持ち続けることになった。1971年にはテキサス州マーファに家を借り、後に数々の建物を購入し、32,000エーカー(130km2)以上の牧場を取得し、総称してアヤラ・デ・チナティと呼ばれるようになった。

 

また、この頃からジャッドの作品はより規模が大きくなり、また複雑化していった。ジャッドは、ジャッド自身の遊び場や物理的な体験ができるような部屋サイズのインスタレーション作品を制作する。

 

1970年代から1980年代にかけてジャッドは、ヨーロッパの古典的な具象彫刻の理想と正反対の根本的な彫刻作品を制作し始める。ジャッドは芸術は何かを表現するものではなく、それ自体が明確に自立し、単に存在するものであるべきだと考えていた彼の美学は、幻想と偽りに反対して彼自身の厳格なルールに従い、明確で、強く、明確な作品を生み出すことだった。

 

1976年に、全米芸術基金やノーザンケンタッキー大学から支援を受け、ジャッドは2.7メートルにアルミニウム彫刻作品を学校のキャンパスの真ん中に設置した。また1984年にはローメイヤー彫刻公園では鉄筋コンクリート製の3つの作品『無題』が設置された。

 

1972年頃から素材に合板を使いはじめる。耐久性が高い構造の作品素材として人気が出始めた頃で、ジャッドにとって合板は作品の歪みの問題を回避しつつ、作品の大きさを拡大させることを可能にしてくれたという。1980年代には、大規模な屋外作品制作の素材としてコルテン鋼を使いはじめた。

《BOX》1975-1977年
《BOX》1975-1977年
《無題》1984年
《無題》1984年

ジャッドは1984年に、スイスのLehni AGからの依頼で薄い板を曲げたり、リベットで留めたりして作品を制作したのがきっかけで、アルミにエナメルを塗った作品を制作し始めた。これらの作品は当初、バーゼル郊外のメリアンパークで開催された野外展示会のために制作された。

 

ジャッドは1990年代初頭までこれらの技法を用いた作品を制作し続けた。アルミにエナメルを使った作品は、それまでのアルマイトやプレキシグラスに限定されていた色のパレットを広げ、1つの作品に2色以上の色を使うことができるようになった。

《無題》1991年
《無題》1991年

家具


晩年期のジャッドは、家具、デザイン、建築の仕事も始めた。しかし、ジャッドはデザインの仕事とアート作品は別々のものであるよう注意していた。デザインとアートの違いについてジャッドはこのように話している。

 

「アートの構図や大きさを家具や建築に転嫁することはできない。アートの意図は、機能的でなければならない家具や建築とは異なる。椅子や建物が機能的でなければ、芸術にしか見えないのであれば、それはばかげている。椅子の芸術とは、その芸術への類似性ではなく、部分的には椅子としての合理性、有用性、大きさである。芸術作品はそれ自体として存在し、椅子は椅子そのものとして存在する」

 

最初の家具制作はジャッドがニューヨークからマーファに移動した1970年に制作された。イス、ベッド、棚、机、テーブルの制作が行われた。マーファで販売されていた家具のデザインに不満を持ち、ジャッド自身が家具のデザインをしはじめたのが家具制作のきっかけだったという。

 

当初はラフに自分で作っていたが、次第に木製家具の制作に夢中になり、洗練しはじめる。さらに職人をを雇いだし、世界中の技術と材料、さまざまな方法を使って家具製作をしはじめた。

ジャッド・ファニチャー



重要な展示


・1957年にパノラマ・ギャラリーでジャッドは初個展を開催。

・1968年にニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館が回顧展を開催。

また、1968年から数十年間ジャッドは、ジョン・シモン・グッゲンハイム記念財団をはじめ多くの支援者から受けてきた。

 

・1975年にオタワにあるカナダ国立美術館はジャッドの展覧会と作品集を出版。

・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。

・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。

 

・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。

・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。 

コレクション


ジャッドの作品は、オーストリア国立工芸美術館(ウィーン)、テヘラン現代美術館(イラン)、スイス近代美術館(スイス)、テイト・モダン(ロンドン)、シカゴ現代美術館(シカゴ)、サンフランシスコ近代美術館(カリフォルニア)、ヒューストン美術館(ワシントン)、イスラエル美術館(エルサレム)など世界中の美術館で収蔵されている。 


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Judd、2020年5月17日アクセス