退廃芸術 / Degenerate art
ナチスによって弾圧された近代美術
アドルフ・ヒトラーは近代美術を嫌った。彼が好んだ芸術は近代美術以前の伝統的な絵画であり、身体のゆがんだ表現主義的な芸術や抽象芸術は理解できなかった。近代美術を担っていた芸術家や画商にユダヤ人が多かった点もヒトラーにとって気に入らなかった。そうして、前衛的な表現や非ドイツ人的な表現を「退廃芸術」と名付け弾圧を始めた。5000点以上の作品が押収され、売却や焼却処分された。
概要
退廃芸術とは、ドイツのナチス政権が近代美術に対して名付けた造語である。国内における非ドイツ的、ユダヤ系、共産主義的な芸術は禁止され、退廃芸術家に指定された人たちの活動は制限された。制限を受けたものは芸術家だけでなく、美術学校で教鞭をとるものや近代美術を扱うなど画商など近代美術関係者全体にまで及んだ。
1937年にはミュンヘンでナチス政権企画のもと『退廃芸術展』というタイトルで展覧会が開催された。ナチスが押収した近代美術が一斉に展示され、各作品を嘲るテキストラベルが付けられた。その展示会は近代美術への批判を一般大衆に煽るように設計された展示構成になっており、その後、ドイツの各都市やオーストリアで巡回展示が行われた。
近代美術の表現や販売が制限される一方、ナチス政権は近代美術以前の伝統的な絵画や彫刻を奨励する。また人種差別主義やナショナル・ロマンティシズムに価値を置く『血と土』、軍国主義、従順性などの思想を国民に広く推し進めた。
退廃芸術による表現の規制は美術だけでなく音楽や映画や書籍などあらゆるジャンルに及んだ。ジャズなどの黒人音楽、社会主義者やユダヤ人の作る音楽、そして実験的な近代音楽・現代音楽は「退廃音楽」として規制された。
重要ポイント
- 印象派以降の近代美術全般が「頽廃芸術」の対象となった
- 非ドイツ的、ユダヤ人芸術家、共産主義的な芸術も対象となった
- ドイツ的で伝統的な芸術は奨励された
頽廃芸術展で展示された作家
・ヤンケル・アドラー
・ハンス・バルシュク
・エルンスト・バルラハ
・ルドルフ・バウアー
・フィリップ・バウクネヒ
・ウィリ・バウマイスター
・ヘルベルト・バイヤー
・マックス・ベックリン
・ルドルフ・ベルリング
・ポール・ビンデル
・テオ・ブリュン
・マックス・バチャーズ
・フリッツ・バーガー・ミュールフェルト
・ポール・コメニッシュ
・ハインリヒ・カンペンドンク
・ジョージ・グロス
など。
理解不可能な近代美術への反発が源泉
20世紀初頭は芸術における大変革の時代だった。視覚芸術においてはフォーヴィスム、キュビスム、ダダ、シュルレアリスム、象徴主義、後期印象派のような絵画が発明され、ドイツでもこのような前衛芸術はおおいに発展していた。
しかし、実際のところ前衛芸術は普遍的には受け入れられているわけではなかった。ドイツの一般市民のあいだでも、他のヨーロッパの地域と同様に、エリート主義者、倫理的に問題のある人、理解不可能な者として嫌われていた人たちの間で好まれている前衛芸術にはあまり興味はなかったとされている。
ただし、1920年代のワイマール政府のドイツは前衛芸術の中心的な場所として活気はあり、ポール・ヒンデミットやクルト・ウィールのジャズやアルノルト・シェーンベルクの前衛音楽に影響を受けて、絵画や彫刻においても表現主義が生まれた。映画においてもロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』(1920年)やF・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)などの表現主義の作品がたくさん生まれた。
ナチス政権はこのようなワイマール時代に発展した前衛文化を嫌っていた。ナチスは部分的に保守的な美術的価値が基盤にあり、また宣伝道具として芸術を利用することしか考えていなかった。両方の面で新即物主義の画家のオットー・ディクスの《傷痍軍人》のような作品はナチスたちにとって忌まわしいものだった。
この作品は、ベルリンの通りによく似た背景で第一次世界対戦の4人の退役軍人たちをグロテスクに描写したもので、敗戦国ドイツの醜悪さ、悲惨さを暴きだし、社会告発を行ったものであるが、オットーの作品はのちに頽廃芸術展でクローズアップされ非難された。
ユダヤ人が国内で活躍している点も気に食わなかったヒトラー
独裁者ヒトラーはこれまでなったほどの法の力で文化統制を始めた。ヒトラーによっては近代以前の美術、なかでも古代ギリシアやローマ芸術が美術的価値の規範とみなされるようになった。
美術史家のヘンリー・グローシャンズによれば、古代ギリシアやローマの古典的芸術がユダヤ人前衛芸術によって汚染されているとヒトラーは考えていたという。近代美術はドイツ人の魂に反するユダヤ人による暴力的な芸術行為とみなしていた。
マックス・リーバーマンやルートヴィヒ・マイトナー、オットー・フリードリッヒ、マルク・シャガールといったドイツの近代主義運動に多大な貢献をしたユダヤ人でさえもヒトラーにとっては非難対象となる芸術家だった。
自身の退廃理論を伝えるために、ナチスは反ユダヤ主義運動と文化支配を統合させたキャンペーンを公的に支援した。
「頽廃」という言葉のルーツである『頽廃論』
「頽廃」という用語は、19世紀後半に批評家のマックス・ノルダウが1892年の著作『頽廃』で発表した理論から由来している。ノルダウの理論は犯罪学者のチェーザレ・ロンブローゾが1876年に出版した『犯罪者』をヒントにして発展させたものだった。
ロンブローゾは遺伝的に犯罪を起こしてしまう「生まれながらの犯罪者」が存在することを証明しようとした学者である。ノルダウはこのロンブローゾの『犯罪人論』の理論を近代美術の批評に組み入れた。彼によれば近代社会の生活によって精神的に衰弱した芸術家たちの作品は、首尾一貫した作品制作をするための自己管理能力を喪失しているという。
なかでもにイギリス文学における耽美主義、フランス文学における象徴主義運動の中の神秘主義的表現、また絵画では印象派の作風は視覚皮質の病気の兆候であり、これらの芸術は近代生活もたらした頽廃であると攻撃する。その一方で伝統的なドイツ・ロマン主義を賞賛した。
なおノルダウはユダヤ人であり、シオニスト運動の中心的人物であったという事実にも関わらず、皮肉なことに彼の理論はナチスに大きく取り上げられることになり、前衛芸術は近代社会において堕落した文化であり、ドイツ芸術における人種的純粋さを取り戻すための議論の基礎となった。
ヒトラーが好きな芸術は古代ギリシアや中世ヨーロッパ芸術
ヒトラーの芸術的価値の基礎となったのは芸術評論家・建築家のパウル・シュルツェ=ナウムブルクで、彼は古代ギリシアや中世こそがアーリア人芸術の源泉であるとし、ユダヤ人やスラブ人の近代美術や近代建築を非難していた。
パウル・シュルツェ=ナウムブルクによれば、人種的に純粋な芸術家のみが時代を超えて古代の理想的な美を享受し、健康的な芸術を制作できると主張した。その一方で人種的に混じった近代芸術家は、無秩序な作品や歪んだ奇形的な人間の表現(ドイツ表現主義など)を行なうと指摘し、そうして近代美術は人種的に不純であると結論づけたという。
映画「ヒトラー ~最期の12日間~」より。
ゲッベルス管轄下のもと頽廃文化の弾圧
1933年1月31日ヒトラーが権力を掌握すると、すぐに頽廃文化の弾圧が行われ始めた。問題のある書物は焚書が行われ、ナチスの芸術感にそぐわない美術や音楽の教師たちは教職を剥奪され、現代美術に理解を示す美術館の学芸員たちはナチス党員に置き換えられた。
1933年9月、ヨーゼフ・ゲッベルスの管轄下のもと、文化・芸術・報道方面の統制をおこなう帝国文化院が設立された。ナチスがサポートする人種的に純潔な芸術家のみで構成された芸術家組織が作られた。ゲッベルスは「将来、組織の会員である芸術家だけがドイツ人の文化生活の創造を許可される」と声明を出した。
1933年から1934年の間、ドイツ表現主義の問題で党内で混乱が生じた。ゲッベルスやエミール・ノルデやエルンスト・バルラハ、エリック・ヘッケルといった力強い表現主義の作家を好んでいたためである。ゲッベルスは「わたしたち国家社会主義者は非近代的ではない。私たちは政治や社会問題だけでなく、新しい近代性の担い手であるが、芸術や知的問題でも同じことだ」と話していた。
しかし、アドルフ・ヒトラーやアルフレッド・ローゼンバーグが率いる派閥は表現主義者を軽蔑しており、ついに帝国議会で「モダニストたちの表現する場所はない」というヒトラーの命令が達しされた。この勅令は当初、多くの芸術家たちにとって自分たちの状況がどうなるかわからないままだった。なぜなら、エミール・ノルデはナチス会員であり、ゲッベルスも彼の絵を好んでいたためだ。
1936年に芸術活動の停止が停止を命じられた後も引き続き議論がなされた。その頃、マックス・ベックリン、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、オスカー・シュレンマーをはじめ多くの近代美術家にとって、1937年6月までは、自分たちの芸術政策がナチスから許容されるようになるだろうという希望は捨ててはいなかった。
1936年11月、ゲッベルスは「この4年間、芸術界の振興に尽力する傍ら、芸術界がナチスに順応することを期待したが改善の気配がない」と話した。
フランツ・カフカの書籍は、1939年にはもはや購入できなくなっていたが、戦争が勃発するまではヘルマン・ヘッセやハンス・ファラダなどイデオロギー的に問題のある作家の作品はまだ広く読まれていた。ナチスはハイカルチャーに関しては厳しい文化統制を行なっていたが、大衆文化にはそれほど規制はされていなかったので、『或る夜の出来事』『桑港』『風と共に去りぬ』などをはじめハリウッド映画に関してもほとんどドイツ国内で上映はされていた。
実験的な無調音楽のパフォーマンスは禁止されていたが、ジャズに関してはそれほど厳しく規制はされていなかった。ベニー・グッドマンやジャンゴ・ラインハルトらは当時のドイツで人気で、イギリスやアメリカのジャズバンドらも戦争が起こるまで大都市で公演をしていた。
頽廃芸術展の開催
1937年までに退廃芸術の基準はナチスの方針にしっかりと確立されていた。同年6月30日、ゲッベルスは画家のアドルフ・ツィーグラーを視覚芸術国家院の校長に指名した。
ナチスから委任された6人の担当者の元、美術館や芸術コレクションから退廃芸術や近代美術や破壊的芸術と見なされる作品が没収され始めた。これらの作品はその後、ドイツ文化に浸透している「ひねくれたユダヤ人の精神」に対するさらなる反発を扇動するために展示会で一般大衆に公開されることになった。
ノルデ作品1052点、ヘッケル作品755点、キルヒナー作品639点、マックス・ベックマン作品508点など5000以上の作品ナチスによって押収された。他に押収された著名な芸術はアレクサンダー・アーキペンコ、マルク・シャガール、ジェームス・アンソール、アルバート・グレイズ、アンリ マティス、ジャン・メッツァンジェ、パブロ・ピカソ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホなどである。
頽廃芸術展ではドイツ国内の32の美術館の所蔵されている650点以上の絵画、彫刻、版画、本が集められ、1937年7月19日ミュンヘンで初めて開催された。その後、ドイツやオーストリアの11の都市を巡回して11月30日まで展示された。展示はミュンヘン大学付属の考古学研究所として利用されていた場所だった。
入ってまず現れた彫刻はイエスの巨大な劇的な肖像画で、それは威嚇的な表現で意図的に鑑賞者に怖がらせるような展示だった。もともと窮屈な部屋がさまざま仕切りで仕切られており、わざと混沌として圧迫感をかんじさせる展示構成になっていた。絵画は敷き詰められ、額装されておらず、キャンバスがむきだしで、なかには紐でかけられただけでになっているものもあった。
絵の解説は紙に手書きするか壁にじかに描くという乱暴な方法で、ほかにも壁には各芸術家の発言からの抜粋や、主催者による悪意的な煽り文句が書き殴られていた。
ヒトラーはオープン前に来館し一瞥しただけで感想を漏らさなかった。全国造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーは退廃芸術を悪罵する開会演説をした。
「国民のなけなしの税金で、民族に奉仕すべき美術館やその職員たちが出来損ないの作品を大量に買い集めて自己満足に浸ったことに怒りを覚える。どの絵や彫刻を見ても、精神病の働きを感じるしかなく、彼らの健康な作品を探すことはできなかった。これは過ぎ去った退廃の時代の記録であり、未だドイツ全土の美術館に残るこれらのがらくたを早く一掃し、各美術館の展示室をまっとうな民族的な作家に与えなければならない」と、演説し最後にこのように締めくくった。
「ドイツ民族よ来たれ!そして自ら判断せよ!」
芸術家や作品の運命
ドイツの前衛芸術家たちは今や国家の敵であり、ドイツ文化に対する脅威であると烙印を押された。多くの芸術家たちは亡命者となった。マックス・べルックリンは頽廃芸術展の初日にアムステルダムへ亡命した。
マックス・エルンストはペギー・グッゲンハイムの助けを得てアメリカへ亡命した。エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは1938年にスイスで自殺。パウル・クレーはスイスへ亡命して年月を過ごしたが、退廃芸術家という理由でスイス市民権を得ることはできなかった。ドイツの画商アルフレド・フレヒトハイムは1937年にロンドンに亡命したが、敗血症のため亡くなった。
そのほかの芸術家は国内のどこかへ亡命した。オットー・ディックスは当局を刺激しないよう素朴な風景画に切り替えて田舎へ移った。
帝国文化院はエドガー・エンデやエミール・ノルデといった著名な芸術家に絵画素材の購入を禁じた。ドイツに残っていた芸術家たちは大学に勤務することを禁じられ、また制作の禁止律を侵していないかどうか確かめるためにゲシュタポから予告なしの捜査を受けた。
ノルデは秘密裏に絵の具を購入していたが、油絵の具のような臭いがしない水彩絵の具だけを使っていた。
作品が原因で亡くなった芸術家はいないが、ドイツから亡命しなかったユダヤ系の画家たちは強制収容所へ送られ、その他の前衛芸術家、たとえばエルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラーなどはT4作戦で殺害された。
退廃芸術展の展示後、作品はオークションでスイスに売却され、いくつかの作品は美術館、個人コレクターが購入した。またナチス当局らが個人的に多くを私有もしていた。たとえば、ヘルマン・ゲーリングはファン・ゴッホやポール・セザンヌといった価値の高い作品を14点所持していた。1939年3月にベルリン消防団は明らかに国際的に価値がほとんどないような4000点もの絵画、ドローイング、版画作品を焼却処分した。
ピカソ、ダリ、エルンスト、クレー、レジェ、ミロといった巨匠の退廃芸術作品600点が、1942年7月27日の夜にジュ・ド・ポーム国立美術館の庭で焼却処分された。退廃芸術をドイツへ持ち込むことが禁じられていたたが、占領下フランスでは頽廃芸術家らの作品の売買はまだ可能だった。
■参考文献