【美術解説】デヴィッド・リンチ「カルト映画の帝王」

デヴィッド・リンチ / David Lynch

シュルレアリスムをこよなく愛すカルトの帝王


映画「イレイザー・ヘッド」より
映画「イレイザー・ヘッド」より

概要


生年月日 1946年1月20日
国籍 アメリカ
居住地 ロサンゼルス
表現形式 映画、絵画、音楽、デザイン、写真、演技
スタイル シュルレアリスム

デヴィッド・リンチ(1946年1月20日〜)はアメリカの映画監督、脚本家、画家、プロデューサー、写真家、音楽家、俳優。シュルレアリスティックで不気味な作風の個性的な映画スタイルを確立している。

 

イギリスの『ガーディアン』誌は、リンチを「現代における最重要映画監督」と評し、AllMovie社は「現代アメリカ映画製作のルネサンス・マン」と評した。またリンチのシュルレアリスム映画における商業的成功は「アメリカで最初の人気のポピュラー・シュルレアリスト」のラベルが付けられることになった。

 

リンチのシュルレアリスム映画の大半は暴力的な要素を含んでおり鑑賞者の気分を害させる。その一方で一部の人達を幻想的な世界に引き込むカルト的な魅力がある。その前衛的演出からわかるように、リンチはアメリカ映画よりもヨーロッパ映画に影響を受けていることを公言している。

 

リンチが尊敬している映画監督はスタンリー・キューブリック、フェデリコ・フェリーニ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジャック・タチ。最も好きな作品はビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、キューブリックの『ロリータ』で、特に影響を受けているのはハーク・ハーベイの『恐怖の足跡』だという。

 

リンチ作品には繰り返し現れるテーマがあり、映画批評家は「リンチ作品はさまざまなキャラクターやイメージが詰まった巨大なジグソーパズルのようなもの」と批評している。

 

モンタナ州のミズーリのミドルクラスの家庭で生まれたリンチは、幼少期にアメリカ中を転々として育った。フィラデルフィアにあるペンシルヴァニア美術大学で絵画を学んでいたが、そこでリンチは初めて短編映画を作り始め、映像制作のほうへ移るようになる。

 

卒業後にロサンゼルスに移ると、最初の長編映画の『イレイザー・ヘッド』(1977年)を制作。『イレイザー・ヘッド』は、『ロッキー・ホラー・ショー』『エル・トポ』『ピンク・フラミンゴ』などの70年代ミッドナイト映画におけるカルトの古典となるほど好評を得て、アンダーグラウンドシーンで有名になる。

 

その後リンチは、奇形の男性で有名なジョゼフ・メリックの自伝映画『エレファント・マン』(1980年)を制作。この作品をきっかけにメインストリームからも注目を集めるようになった。その後リンチは大物プロデューサーのデ・ラウレンティスと契約し、2つの映画を制作することになる。1つはSF映画『Dune』(1984年)で、これは商業的に大失敗だった。もう1つは犯罪映画『ブルー・ブルベット』(1986年)で、その過激な内容から、はじめは一般庶民や批評家から酷評されたが商業的には成功を収め、最終的にはアカデミー監督賞も受賞した。

 

次にリンチは、マーク・フロストとともにTVシリーズ『ツイン・ピークス』(1990−1991、2017)、またその続編映画『ツイン・ピークス』(1992年)を制作する。同時期にロードムービー『ワイルド・アット・ハート』(1990年)、ファミリームービー『ストレイ・ストーリー』(1999年)を制作する。この頃からさらに本格的にシュルレアリスム・ムービー制作をに力を傾けはじめ、「夢の論理」を基盤にして非線形の物語構造で制作した作品を3本制作する。その3本は『ロスト・ハイウェイ』(1997年)、『マルホランド・ドライブ』(2001年)、『インランド・エンパイア』(2006年)である。

 

一方、リンチは短編コメディ・アニメーション『ダムランド』やシュルレアリスム短編映像『ラビット』のような、媒体としてインターネットを利用した実験作品を発表する。

 

リンチは3回、アメリカ映画アカデミー賞の最優秀監督と最優秀脚本賞にノミネートされている。2006年には第63回ヴェネツィア国際映画祭にて栄誉金獅子賞を受賞。2007年には現代美術家としてカルティエ現代美術財団にて個展を開催。

略歴


幼少期


デヴィッド・リンチは1946年1月20日にモンタナ州・ミゾーリで生まれた。父のドナルド・ウォルトン・リンチはアメリカ合衆国農務省に勤める科学者で、母のエドウィナ・サニー・リンチは英語教師だった。リンチの祖父母は19世紀にフィンランドからアメリカへ移ってきた移民だったという。リンチ一家の宗派はキリスト教プロテスタントだった。

 

リンチの家族は父親の仕事の都合で各地を転々としていた。生後2ヶ月のときアイダホ州・サンドポイントへ移り、2年後に弟のジョンが生まれ、その後ワシントン州・スポケーンに移ると妹のマルタが生まれた。

 

その後もノースカロライナ州・ダーラム、アイダホ州・ボイシ、ヴァージニア州・アレクサンドリアへ移り住んだ。リンチは幼少期の一時的なノマド生活が、新しい場所で新しい人達と親しくなるための訓練になったと話している。

 

学校と並行して、リンチはボーイスカウトに参加。ボーイスカウトでリンチは最高ランクの「イーグルスカウト」になった。

 

リンチは幼少時から絵画や素描に関心を持っていた。ヴァージニア州に住んでいるときに友人の父がプロの画家だったこともあり、友人の父から芸術家として成功することに関する話を聞き興味を持ち始める。大学で本格的に絵画を勉強しようと1964年にボストン美術大学に入学する。ルームメイトにピーター・ウルフがいた。

 

しかし1年後に退学。友人でリンチと同じく学校に不満を持っていたジャック・フィスクとともに3年間のヨーロッパ留学を計画する。画家のオスカー・ココシュカのもとで絵画を学ぼうとザルツブルグへ渡ったが、ココシュカはおらず幻滅。わずか15日間でアメリカへ帰国することになった。

イレイザー・ヘッドの源泉となる生活


ヴァージニアへ戻るがリンチの両親は自宅を引き払い。カリフォルニア州のウォールナットクリークへ移っていたため、友人のトニー・ケリーの元で一時的に居候することになる。

 

ペンシルヴァニア美術大学に入学していた友人のジャック・フリスクの助言で、リンチは同大学へ入学する決心をして、フェラデルフィアへ移る。リンチはボストン時代の学校よりもペンシルヴァニア大学のほうが気に入り、のちに「この学校には芸術に対して本気の素晴らしい画家がたくさんいた。誰もが互いに刺激しあっており、素晴らしい時間を過ごすことができた」と話している。

 

またこの時代にペギー・リンチと出会い、1967年に結婚。翌年、ペギーは長女ジェニファーを出産する。ペギーは「当時のリンチは自分が父親になることに対して消極的だったが、出産後には彼女を非常に愛すようになった。でも、私たちが結婚していたとき、私は妊娠していて、二人とも出産には消極的だった。」と話している。

 

出産後、リンチたちはフェラデルフィアのフェアマウントへ移り、そこで12部屋もある大きな家をわずか3500ドルで購入する。その場所は治安が悪く、貧困地区であったため物件が異常に安かった。リンチは当時の家について「家は安かったが、街全体は怖かった。子どもが銃で撃たれ通りで死んでいた。窓を割られ泥棒が入り、車も盗まれた。家は私たちが引っ越して3日で壊された」と話している。この頃の「父親になることへ消極的だったこと」や「危険な街での生活」の思い出が、のちの「イレイザー・ヘッド」の源泉となった。

絵画から映像制作へ転向


ペンシルヴァニア大学でリンチは最初の短編映画『Six Men Getting Sick』(1967年)を制作する。自分の絵画が動いているものを見たいと思ったのが映画制作のきっかけだったという。一人で映画を制作をするにあたって安価な16mmカメラを購入し、スタジオとして大学内の使われていない一室を200ドルで借りて、映画製作を始める。

 

『Six Men Getting Sick』は、火災現場のサウンドをバックに死体のような人々が嘔吐を繰り返すシュルレアリスティックなアニメーション映画である。初期作品にして、その後のリンチ作品の核となる悪夢的な光景がきちんと表現されている。

 

 

リンチは年に一度の大学の年度末展示で、この作品をループ上演した結果、リンチの親友で裕福なH.バートン・ワッサーマンが絶賛。その後、1000ドルでワッサーマンの自宅に用意された映像機器で上映をするための映画を制作する企画へと発展することになった。

続いて、実写とアニメーションを融合した4分間の短編映画『アルファベット』(1968年)を制作。この作品ではリンチの妻のペギーが少女役で出演。内容は悪夢にうなされてベッドの上で血を嘔吐する不気味な少女とシュルレアリスティックなアニメーションが流れる恐怖映画である。

 

音声では、リンチの赤ん坊の娘ジェニファーが泣いているところを録音して加工したものが使われている。リンチによれば、ある夜、ペギーの姪(当時6歳)が悪夢でうなされながら、アルファベットを口ずさんでいた寝言からインスピレーションを受けて作ったという。

 

この作品は、AFI(アメリカ映画協会)で高く評価され、アメリカン・フィルム・インスティチュートの奨学金を得ることに成功する。

ミッドナイト・ムービーの名作「イレイザーヘッド」


1971年、リンチは妻と娘とロサンゼルスへ移り、AFI Conservatoryで映画制作を本格的に学ぶ。ここでリンチは長編映画『ガーデンバック』という映画を制作する。この仕事でリンチは多くの学生たちと共同制作することになるが、リンチの脚本に対して役者たちがさまざまな注文を付けはじめたため嫌気をさし、結局制作を投げ出してしまう。

 

AFIの学部長のフランク・ダニエルがリンチをさとし、リンチは自分の脚本が干渉されることのないことを条件で映画制作を再開する。結局のところ『ガーデンバック』の制作はうまくいかず、代わりに『イレイザー・ヘッド』という新しい映画を用意することになった。

 

『イレイザー・ヘッド』は約42分の長編映画になるにもかかわらず、脚本はたった21ページだったが、これはリンチは他人の干渉を極力受けないかたちで制作できるよう意図的に少なくしていると思われる。撮影は1972年5月29日から始まった。だれも使っていない建物で夜中に侵入し、シシー・スペイセク、ジャック・フィスク、フレデリック・エルムス、アラン・スプレットら数人の親友だけで撮影を行なった。

 

AFIから制作資金として10000ドルの助成を受けていたものの資金不足だっため、リンチをはじめスタッフの多くは日中にアルバイトをして、制作費を自己捻出していた。そうした経緯から『イレイザー・ヘッド』の撮影は停止と再開を繰り返して難航する。完成するのに5年もの歳月がかかった。

 

制作中の1974年に奇しくも映画のストーリーと同じように妻ペギーと離婚。また1973年に『イレイザー・ヘッド』とは別に、リンチは『アンピュティ』という奇形の脚の女性が主役の短編映画を制作している。

 『イレイザー・ヘッド』は退廃的な産業荒廃地に住むヘンリーという名前の物静かな男の物語である。ある日、ヘンリーは恋人から奇妙な赤ん坊を出産したことを告白され、彼女との結婚を決意する。その赤ん坊は異様に小さく奇形だった。

 

赤ん坊は絶えず甲高い泣き声でピーピーと泣き、その異様な声に悩まされたメアリーは家を出てしまう。異様な声を上げるのは病気にかかっているからだと気づいたヘンリーは、助けようとするが、誤って殺してしまうことに。

 

リンチはずっとインタビューでこの映画の趣旨を聞かれても応えず、いかなる質問にも肯定も否定もせず、ただ沈黙を保ち続けている。ただし、新婚当初にフィラデルフィアに住んでいた時代の恐ろしい街の雰囲気に影響されていることは認めており、「私のフィラデルフィア物語」と話している。

 

『イレイザー・ヘッド』は1976年に完成。その後カンヌ映画祭に出品して一部の審査員からは好評だったものの、一方で酷評する人も多かったため上映はされることはなかった。同じようにニューヨーク映画祭でも審査員に酷評され出品を拒否される。

 

結局、『イレイザー・ヘッド」はロサンゼルス映画祭で上映されることになり、その後、エルジン・シアターの配給者であるベン・ベアホンツから連絡があり、ミッドナイトムービーを中心に1977年にアメリカ全土での上映に協力する。

 

『イレイザーヘッド』はミッドナイト・ムービーで人気となり、『エル・トポ』『ピンク・フラミンゴ』『ロッキー・ホラーショー』『ハーダー・ゼイ・カム』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と並んで70年代ミッドナイトムービーの重要作品の1つとして評価されるようになった。

「エレファントマン」でメインストリームへ


『イレイザー・ヘッド』の成功後、スチュアート・コーンフェルドやメル・ブルックスといった映画プロデューサーらから次々と連絡が入り、リンチは彼らと次の映画制作に入る。

 

当時、『ルーニー・ロケット』という赤毛の奇妙な大男の話の映画の脚本をすでにリンチは書いていたが、スポンサーが見つかっていなかった。リンチはコーンフェルドに相談するものの映画化は実現不可能だと説得され、逆にコーンフェルドに何か映画にするための良いアイデアはないかたずねる。コーンフェルドは4本ほど企画を用意しており、最初に『エレファント・マン』の話をリンチにする。リンチは即座にエレファント・マンの話に興味を持ち、映画制作を行う決心をした。

 

『エレファント・マン』はクリストファー・デ・ボアとエリック・バーグレン原作で、ビクトリア朝時代のロンドンで見世物小屋に出演していたた重度の奇形男ジョン・メリックのドキュメンタリー映画である。

 

リンチは実話よりも面白くなるよう自分である程度、話を脚色したいと考え、製作会社のブルックス・フィルムズへ相談する。コーンフェルドはリンチの作品のことをまったく知らないブルックスに『イレイザー・ヘッド』を紹介すると、「君は狂ってる!気に入った、いいだろう」とリンチの提案を即座に受け入れた。

 

こうして『エレファント・マン』の制作が始まる。ジョン・メリック役にジョン・ハースト、ドクター役にアンソニー・ホプキンスを起用。ロンドンで撮影が行われ、リンチ独自のシュルレアリスティックな白黒映像の演出が特徴的となった。

 

1980年に上映。上映後『エレファント・マン』は大きな反響を呼び、興行的にも成功。制作費が500万ドルで興行収入は$2600万ドルとなり黒字となった。その後『エレファント・マン』は、ベスト監督賞、アカデミー脚色賞などアカデミー賞の8部門にノミネートされる。リンチをこれまでのマイナーなカルト映画の監督から、ポピュラーの映画監督に押し上げた出世作となった。『エレファント・マン』の成功でメインストリームからも徐々に注目を集めるようになった

デューン


『エレファント・マン』の商業的な成功後、映画監督のジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』の三作目『ジェダイの帰還』の制作をリンチに依頼するが、リンチは「ルーカス自身が自身のヴィジョンを映画で表現するべきだ」と、この仕事を断る。

 

その後別に大型予算のSF映画の企画が舞い込む。『デ・ラウレンティス』のプロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスが、リンチにフランク・ハーバートのSF小説『デューン』の映画制作を依頼する。

 

リンチはこの企画を引き受け、原作に基づいて脚本を書き始めた。セットの制作にもリンチが直接関わり、鉄、ボルト、磁器などの素材を組み合わせたジーダプライム惑星のセットを制作する。

 

作品は1984年に上映されたが、興行的には失敗に終わった。制作費が4500万ドルでありながら、興行収入は国内でわずか2740万ドル。ディノ・デ・ラウレンティスとしては、リンチ版『デューン』を『スター・ウォーズ』のような商業的成功へ持ち込みたかったとされている。

 

なお、リンチはファイナル・カット版のフィルムを所持しておらず、実際に公開されたものは当初のフィルムと違ってスタジオ側でかなり編集されていたという。

 

のちにユニバーサル・スタジオからTV放映版のため未公開シーンを多数収録した長尺版も制作されたが、そちらにはリンチは一切関わることなく、監督名も“アラン・スミシー”が使われている。

コミック・ストリップと写真


1983年、『デューン』の映画制作のあいだにリンチは、コミック・ストリップ『世界で最も凶暴な犬』を描いている。凶暴なため鎖に繋がれて動くことができない犬の話で、1983年から1992年まで雑誌『ヴィレッジボイス』や新聞『クリエイティブ・ローフィング』などいくつかのメディアで連載していた。

 

またリンチは同じ頃に芸術表現として写真に関心をもつようになり、北イングランドを旅行し、特に退廃した工場風景の写真を撮影していた。

『世界で最も凶暴な犬』
『世界で最も凶暴な犬』
『無題』(イングランド)
『無題』(イングランド)

多くの論争を巻き起こした「ブルー・ブルベッド」


リンチは契約の都合上、『デューン』に続いてデ・ラウレンティスとほかに2つの企画の仕事をする必要があった。

 

1つは『デューン』の続編の制作の予定だったが、これは興行的な失敗により立ち消えとなった。もう1つはリンチがしばらく前から取り組んでいた仕事を基盤としたもので、アメリカ・ランバートンという架空の町を舞台にした映画『ブルーベルベット』である。

 

切断された耳を発見した大学生のジェフリー・バーモントが、友人サンディの助けを得て調査をすすめるうちに、精神病質者フランク・ブース率いる犯罪組織が関係していることを知る。フランク・ブースは歌手のドロシー・ヴァレンの夫と子どもを誘拐し、また彼女に繰り返しレイプを犯していたというのが映画の内容である。

 

リンチはこの映画について「謎めいた物語内に潜む奇妙な欲望の夢」と話している。

 

『ブルーベルベット』でリンチは、ロイ・オービソンの『イン・ドリーム』やボビー・ヴィントンの『ブルーベルベット』など1960年代のポップ・ソングを使っているが、後者の『ブルーベルベット』が映画制作のルーツになっている部分が大きいという。「映画を作るきっかけになったのはこの歌だった。何かミステリアスなものを感じ、考えさせたんだ。まず芝生が、次に近所が思いついた」とリンチは話している。

 

また映画全体の音楽はアンジェロ・バダラメンティが手がけている。『ブルーブルベッド』のは商業的に成功しえ、以後、リンチ映画における音楽の大半はバダラメンティが手掛けることになる。

 

デ・ラウレンティスは『ブルーブルベッド』を大変気に入ったが、一般客や批評家たち当時、この映画を酷評。リンチは以前『エレファントマン』で商業的成功したが、『ブルーブルベッド』における酷評や論争は、結局、リンチをさらにメインストリームから注目を浴びるきっかけとなる。多くの批評を巻き起こしながら適度な商業的成功を収めた。

 

『ブルーブルベッド』の制作費は600万ドルで興行収入は855万ドルだった。また『ブルーブルベッド』でリンチは二度目のアカデミー監督賞をノミネートした。

TVドラマシリーズ「ツイン・ピークス」


1980年代にリンチは映画制作と並行してテレビの仕事も始める。1989年にフランスのTV放送番組用に『カウボーイとフランス人』という短編番組を制作。警察署を舞台としたアメリカのテレビドラマ『ヒルストリート・ブルース』などで知られるTVプロデューサーのマーク・フロストと出会ったのをきっかけに、アンソニー・サマーズによるマリリン・モンローの伝記『女神:マリリン・モンローの秘密の生活』を基盤にした番組の制作を始める。

 

しかし、この番組はなかなか進行がしなかったので、同時期に『唾液の泡』というコメディ番組の企画も進めたが、結局、両方の企画ともは頓挫することになる。その後、リンチとフロストは喫茶店で打ち合わせをし、湖のほとりに打ち上げられた遺体のイメージし、『北西航路』という3つ目のTV番組の企画を考える。これが『ツイン・ピークス』(1990-1991)に発展した。

 

ワシントン州の田舎町ツイン・ピークスに住む高校生ローラ・パーマーはレイプして殺される。ほどなくして、FBIからデイル・クーパー特別捜査官が派遣され、操作感はツイン・ピークスという町で殺人関連のことだけでなく、ほかにも地元住民の多くの謎に遭遇していくというあらすじである。リンチは「この番組は犯罪ミステリーと庶民の生活をミックスさせた」と話している。

 

1988年、リンチとフロストは共同で書き上げた『ツイン・ピークス』の脚本を全米三大ネットワークの1つ、ABCへ持ち込む。パイロット版の完成後、モニター調査を経たABCによって、リンチとフロストはさらにファーストシーズン7話分の製作許可を与えられることになった。

 

1990年4月8日、パイロット版を皮切りにファーストシーズンの放送が開始され、見事に大ヒット。すぐにセカンドシーズンの制作が決定し、セカンドシーズンでは22話が追加された。この頃になるとリンチは次作映画『ワイルド・アット・ハード』の制作で忙しくもなったため、実際にリンチ自身が演出を担当したのは6話分だけだったという。なおリンチ自身もゴードン・コールというFBI捜査官役でドラマに出演している。第二期シリーズも成功し、『ツイン・ピークス』はアメリカだけでなく世界中でカルト的なファンを得るようになった

 

しかし、いつまで経っても事件の真犯人が明かされない事に苛立ちを覚える視聴者が多く現れ始めるという事が起こった。それを敏感に察知したABCによって、早く真犯人を明らかにするよう打診され、制作チームは次第にプレッシャーをかけられ、リンチはしぶしぶ従う。

 

事件の真犯人が明らかになる頃にフロストは、映画『ストーリービル 秘められた街』の制作のために『ツイン・ピークス』を離れてしまう。これによって『ツイン・ピークス』は実質上、リンチとフロストの手を離れる事となったわけだが、事件が解決してしまった事によって『ツイン・ピークス』に対する視聴者の興味は薄れ、視聴率は下降を始めた。

ロスト・ハイウェイ


テレビ事業の失敗のあと、リンチは長編映画の制作に戻る。1997年にリンチは『ロスト・ハイウェイ』を制作。商業的には失敗。批評家から賛否両論の反応があった。

 

『ロスト・ハイウェイ』のあと、リンチはメアリー・スウィーニーやジョン・E・ローチが脚本を担当する映画『ストレイト・ストーリー』の制作を始めた。アイオワ州ローレンスに住む老人が、時速8kmの芝刈り機に乗って300マイル離れたウィスコンシン州に住む病気で倒れた兄に会いに行くまでの物語である。

 

これまでのリンチの長編映画と異なり、『ストレイト・ストーリー』はセックス・バイオレンスは含まれていなかった。この脚本を選んだ理由についてリンチは「感動した、ストレイトをジェームス・ディーンのようにしたかった」と話している。アンジェロ・バダラメンティは再び映画音楽を作曲したけれども、「今までのリンチ作品の音楽のときとはかなり異なるものとなった」と話している。

■参考文献

David Lynch - Wikipedia


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