ダリとフランコ独裁政権
フランコ独裁政権に近づきシュルレアリスムグループから追放
若いころのダリの政治観はアナーキズムと共産主義の両方を持ちあわせていた。
第一次世界大戦の勃発とともに発生したダダイズム運動におけるアナーキズム性に忠実だったが、シュルレアリスム運動でトロツキストだったアンドレ・ブルトンと関わっていくうちに、政治観は徐々に共産主義へと変化していった。
1970年の自伝では、ダリは共産主義の思想を捨て、アナーキズムとモラリストの両方の思想を持っていると話している。
スペイン市民戦争の勃発の際にはダリは戦禍を逃れ、政治闘争に巻きこまれることを拒み、フランスへ逃亡する。第二次世界大戦が勃発してドイツがフランスに侵攻すると、今度は資本主義国のアメリカへ逃亡する。
このことでダリは大変な非難を浴び、ジョージ・オーウェルは「戦争前にはスペイン市民戦争からフランスに亡命し、またフランスで大変な恩恵を受けていたのに、フランスに危険が迫るやいなやネズミのように逃げる」と批判した。
第二次世界大戦が終わりカタルーニャに戻ると、ダリはフランコ独裁政権に接近する。フランコを支持する言動をし、また実際にフランコに面会し、彼の孫娘のポートレイトも制作する。独裁政権を批判シュルレアリストたちから批判を浴び、ブルトンから追放される。ダリはフランコ政権下でカトリックに回帰し、その後、今度はどんどん宗教的で保守的な方向へ向かっていった。
アナーキズムから始まり、レーニンを崇拝し、フランコ独裁政権を崇拝し、アメリカでドルの亡者となるというダリは、政治観がまったく一貫しておらず、ほぼ日和見主義者だったとされる。