記憶の固執 / The Persistence of Memory
硬いものと柔らかいもの、両極への執着

サルバドール・ダリの代表作といえば、柔らかく溶けた時計が印象的な『記憶の固執』です。この初期の作品は、ダリの個性と独創性を象徴する一枚であり、シュルレアリスムを代表する傑作として広く知られています。本ページでは、ダリがこの作品で何を伝えたかったのか、そしてその美術史的な意義をわかりやすく解説していきます。
目次
1.概要
1-1.硬いものと柔らかいものへの執着
1-2.硬いものと柔らかいものとは何?
1-3.偏執狂的批判的方法で表現
1-4.時空の歪み
1-5.中央の白い謎の生物は何?
1-6.左下にあるオレンジの時計は?
1-7.背景は故郷カタルーニャ
1-8.《記憶の固執の崩壊》
1-9.ポップカルチャーと柔らかい時計
概要
作者 | サルバドール・ダリ |
制作年 | 1931年 |
メディウム | 油彩、キャンバス |
サイズ | 24 cm × 33 cm |
コレクション | ニューヨーク近代美術館 |
『記憶の固執』は、1931年にサルバドール・ダリが制作した油彩画で、彼の初期の作品にして代表作です。現在、この名作はニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。
「柔らかい時計」や「溶ける時計」とも呼ばれるこの作品は、1932年にニューヨークのシュルレアリスム専門画廊、ジュリアン・レヴィ・ギャラリーで初めて公開されました。
その後、1934年に匿名の寄贈者によって同ギャラリーを通じてニューヨーク近代美術館に寄贈され、今日まで多くの人々を魅了し続けています。
『記憶の固執』を鑑賞するポイントは、時計が溶けることによって「柔らかさ」と「硬さ」の境界が曖昧にされ、物理的な世界と精神的な世界が交錯する様子が描かれていることです。これにより、見る人は現実と夢の狭間に引き込まれます。
次に、ダリ自身の自画像を象徴する白い謎の生物や、蟻という腐敗を象徴的なモチーフを通して、彼の幼少期のトラウマや、性的恐怖、人生観を反映したものとして、作品に深い心理的な層を加えています。ダリの内面的な世界や心理的葛藤を感じ取ることができる点も重要な鑑賞ポイントです。
さらに、時間と空間の歪みを表現した溶けた時計を通じて、時間が流動的で固定されたものではないというテーマを感じ取ることができます。
鑑賞ポイント
- 「柔らかいもの」と「硬いもの」の対比。
- 白い謎の生物はダリ自身の自画像の象徴。
- 時間の流動性と超現実的な空間の表現。
作品の詳細解説
硬いものと柔らかいものへの執着
『記憶の固執』を初めて目にする人が最も心を奪われるのは、柔らかく溶けた時計の姿でしょう。この独特のモチーフについて、ダリ自身はこう語っています。
ある日、キッチンで妻ガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく様子に触発された、と。これが本作の基本的な着想源であり、ダリの創造力の核心にある革新のエネルギーを象徴しているかのようです。
それだけで、絵を描き出すものかと疑問思う人もいるでしょうが、ダリがこのインスピレーションを得た背景には、彼自身の信念や人生観が深く関わっています。これらを掘り下げることで、単なる偶然のひらめきではなく、彼の創造的なモチベーションの源泉がどこにあるのかをより詳細に理解することができます。
ダリの芸術哲学の中心には、彼が繰り返し語った「柔らかいもの」と「硬いもの」への執着があります。この両極の対立と融合へのこだわりが、『記憶の固執』に凝縮されています。固定されたもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)というテーマは、彼の他の作品『宇宙象』や『カタツムリと天使』など、他の作品にも見られる重要な表現です。
美術批評家の澁澤龍彦は、ダリの内面について次のように述べています。
「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない。」
この言葉は、ダリの作品に内包された両義性と独特の創造性を見事に言い表しています。

硬いものと柔らかいものとは何?
ダリが「硬いもの」と「柔らかいもの」に執着した背景には、彼自身の幼少期の経験が深く影響していると言われています。
幼い頃、父親から梅毒に関する生々しい映像を見せられたことが、ダリの女性に対する恐怖心を強め、長く心に影を落としました。このトラウマが原因で、ダリは性的不能であったとも言われています。
こうした背景から、「硬いもの」と「柔らかいもの」という対立するモチーフは、単なる物理的な性質を超えて、ダリ自身の内面的な葛藤や性的恐怖を象徴していると解釈されています。
ダリのこのテーマは、他の作品にも顕著に表れています。例えば、『カタルーニャのパン』では、パンという日常的なモチーフを奇怪に変形させることで、不安定で曖昧な感覚を表現しています。また、『グレート・マスターベーター』では、性的自己探索と不安を象徴する抽象的な形状が描かれ、ダリの心理的葛藤が赤裸々に表現されています。

ダリとシュルレアリスム偏執狂的批判的方法で表現
この絵が描かれる前年に、ダリは自身の芸術創造の基盤となるシュルレアリスム表現「偏執狂的批判的方法」を確立させた。
シュルレアリスムとは、1920年代にフランスで生まれた芸術運動で、無意識の世界や夢の中で現れる非論理的・非現実的なイメージを重視し、現実の枠を超えた表現を目指しました。この運動の中心メンバーの一人がダリでした。
ダリのシュルレアリスムに対するアプローチは、他のシュルレアリストたちとは一線を画しています。彼は、無意識や夢の世界を描くために、フロイトの精神分析理論に深い影響を受け、その中で特に「抑圧された欲望」や「性的象徴」をテーマにした作品を多く制作しました。
ダリは、シュルレアリスムの枠組みを超えた独自の方法論を発明しました。それが「偏執狂的批判的方法」です。この方法は、視覚的に一つの物体が別の物体に重なって見えるという状態を表現する技法で
ダリ自身がこの方法を発展させる過程で、「進行する時間」と「溶けていくカマンベールチーズ」が同じように見えるという体験を語っています。彼は、時間の経過を象徴する時計が、カマンベールチーズの溶ける様子に似ていると感じ、その印象が彼の創作に影響を与えました。


時空の歪みを表現している?
美術批評家たちは、サルバドール・ダリの『記憶の固執』における時間と領域の歪みをしばしば指摘しています。多くの批評家は、ダリがアインシュタインの一般相対性理論を作品に取り入れたと考えています。
一般相対性理論では、時間と空間が互いに影響し合い、重力によって歪むという概念が示されています。ダリの作品における時計の歪みや溶解は、まさにこの理論に触発されたものだと解釈されています。
美術史家ドーン・エイズは、『記憶の固執』を時空のひずみを象徴する作品として解釈し、時間の中で一時停止した瞬間(現在進行形、過去)を同時に描いていると指摘しています。絵画には3つの時計が描かれており、それぞれが異なる時間を示していることから、時間が止まったかのような状態、過去と現在が同時に存在するような感覚が生み出されています。
とはいえ、ダリ自身はこの作品におけるインスピレーションについて、必ずしも物理学的な視点に基づいていたわけではないと述べています。物理学者イリヤ・プリゴジンから科学的な問いを受けた際、ダリは「科学が私のインスピレーションの主なポイントではなく、ただカマンベールチーズが溶けていくことに興味を持っただけだ」と答えています。
中央の白い謎の生物は何?
『記憶の固執』において、中央に配置されている白い謎の生物は、しばしば餃子の皮のように見える奇妙な形をしています。この得体の知れない生物は、実はダリの自画像であり、同じ年の1929年に描かれた『グレート・マスターベーター』にも登場しています。この白い生物は、目を閉じて眠っているように見え、夢を見ている状態を象徴しています。
興味深いことに、ダリはこの作品で溶けていくカマンベールチーズと白い謎の生物を同一視しているように見えます。なぜ、ダリはこの「溶けていく」カマンベールチーズと自分を重ね合わせたのでしょうか。
「溶けていく」という動作は、ダリにとって衰退や崩壊、柔らかさといったネガティブな状態を象徴しています。ダリは、物事が溶けることで失われる感覚、または力が弱まる過程を強く意識していたのかもしれません。一方で、「硬くなる」こと、あるいは「硬いもの」というのは、彼にとってポジティブで好ましい状態を象徴していました。
ダリは、固いもの、強いものを好んで食べていたと言われています。ロブスターや固い貝類のように、強靭でしっかりとした食材に対して好意的な感情を持っていたことが知られています。逆に、ほうれん草のような柔らかくて形のない食べ物は、彼にとって拒否反応を示す対象でした。
また、ダリが研究していたヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の楽園の場面の人物に影響を受けたとされるこの「怪物」は、「消えゆく存在」として解釈されます。夢の中で頻繁に現れるものの、夢想家がその正確な形や構成を特定できない曖昧さを持つこの怪物は、片目を閉じ、複数のまつげが描かれており、それが夢の中にいることを示唆しています。
左下にあるオレンジの時計は?
『記憶の固執』の左下に描かれたオレンジ色の時計には、無数の蟻が這っています。また。時計の文字盤にはハエがいます。このハエや蟻の存在は、サルバドール・ダリの作品において「腐敗」という概念を象徴しています。ダリにとって、蟻はただの昆虫ではなく、死や腐敗の視覚的メタファーであり、さらには強力な性的衝動を象徴するものでもありました。
このテーマは、ダリが5歳の時に目撃した衝撃的な出来事に起因しています。彼が幼い頃、昆虫が蟻によって食べられている光景を目の当たりにしたことが、彼の想像力に深く根付いていったのです。
殻をくり抜かれて中身がなくなった昆虫の姿は、幼いダリにとって非常に印象深く、強烈な感覚を残しました。この体験が、蟻を腐敗や死、そして性的な欲望の象徴へと結びつけていったのです。
蟻と腐敗をテーマにした作品は、ほかに『回顧的女性像』があります。

折れた木
絵画中の裸の折れた木は、美術専門家がダリの他の作品の文脈でオリーブの木であると特定していますが、古代の知恵の消滅と平和の死を表しており、2つの世界大戦間の政治情勢と、ダリの母国スペイン内戦につながる不安を反映しています。

背景は故郷カタルーニャ
『記憶の固執』の画面右上に描かれたごつごつした岩の多い風景は、サルバドール・ダリの故郷であるスペイン、カタルーニャ地方のクレウス岬を模しています。
ダリの作品にしばしば登場する風景は、彼の故郷から強く影響を受けており、特にこの地域の荒々しく美しい自然が彼の創作において重要な役割を果たしています。
ダリが育ったパニ山脈の麓に位置する両親の別荘から見える風景は、彼の作品に深い印象を残しました。『記憶の固執』では、パニ山脈の影が前面に描かれ、後ろにはクレウス岬の荒々しい海岸が広がっています。

リメイク版となる『記憶の固執の崩壊』
1954年、サルバドール・ダリは『記憶の固執』を基にしたリメイク作『記憶の固執の崩壊』を制作しました。この作品は、オリジナル版とのいくつかの重要な違いがあります。
まず、背景の海岸が前作よりも手前に配置され、浸水した状態で描かれています。これは「崩壊」というテーマを強調するためであり、ダリの故郷であるカダケスの風景が急激に変化し、激変した状態を表現しています。
また、中央に位置する白い物体は、オリジナル版よりも透明でゼラチン状に変化しています。上方には魚が並んでいますが、オリジナル版には魚は描かれていません。ダリはこの魚について、「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っています。

ポップカルチャーと柔らかい時計
『記憶の固執』は、芸術業界のみならず、大衆文化にも深く影響を与え、多くのメディアで取り上げられています。この作品は、テレビ番組、映画、マンガ、ゲームなど、さまざまなメディアで見ることができます。
例えば、TV番組では『シンプソンズ』『フューチュラマ』『ヘイ・アーノルド!』『ドクター・フー』『セサミストリート』などで、ダリの溶けた時計が登場するシーンがあります。これらの番組では、シュルレアリスムの象徴として、ダリの作品をユーモラスに取り入れていることが多いです。
映画では、例えば『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』において、ダリの作品がキャラクターたちの世界に溶け込む形で登場し、視覚的なインパクトを与えています。
また、マンガ『ファー・サイド』やゲーム『MOTHER2 ギーグの逆襲』、『クラッシュ・バンディクー2 コルテックスの逆襲!』でも、『記憶の固執』が登場し、その独特なビジュアルが使われることで、シュルレアリスムの要素を楽しむことができます。
このように、『記憶の固執』は現代の大衆文化においても多くの作品に影響を与え、芸術の枠を超えて広がりを見せています。