クロード・モネ / Claude Monet
自然の色彩と光を描く印象主義の創設者
クロード・モネをご存じですか?印象派に興味があるなら、ぜひとも知っておきたい人です。印象派の創始者であり、「印象」シリーズから「睡蓮」シリーズまで、自然風景画を得意とした画家です。この記事では、モネの作品の概要を紹介しますので、彼の名画の背景にある哲学や技法について、より深く知ることができます。では、さっそく本題に入りましょう。
目次
1.概要
2.作品解説
3.略歴
3-1.幼少期
3-2.パリへの移転と兵役
3-4.「印象派」展の始まり
3-5.普仏戦争と各地への転居
3-6.カミーユの死
3-7.印象派グループとの決裂
3-8.二番目の妻アリスと再婚
3-10.「睡蓮」シリーズ
3-11.晩年
概要
オスカー・クロード・モネ(1840年11月14日-1926年12月5日)はフランスの画家。印象派の創設者。「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実践した芸術家。
「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《印象・日の出》に由来している。
フランスの田舎を記録しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、時間帯や視点を変えて何度も同じ風景を描く方法を確立させた。代表的なのが「印象」シリーズや「睡蓮」シリーズである。
1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。
1899年にモネは「睡蓮」シリーズを描きはじめた。最初は中心に日本風の太鼓橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。
重要ポイント
- 印象派の創設者
- 作品「印象・日の出」は「印象派」の由来となった
- 日本の浮世絵から影響を受けた構図
作品解説
略歴
幼少期
クロード・モネは、1840年11月14日、パリ9区のファイエット通りにある45階のビルの5階で、父クロード・アドルフ・モネと母ルイーザ・ジャスティス・アブレ・モネの次男として生まれた。両親ともに第二世代パリジアンだった。
1841年5月20日、モネは地域のパリ教会ノートル・ダム・ド・ロレットでオスカー・クロードとしてカトリック洗礼を受けたが、両親は普段、モネを簡略化してオスカーと呼んでいた。カトリックの洗礼を受けたにももかかわらず、モネはのちに無神論者となった。
1845年に、モネの家族はノルマンディーのル・アーヴルへ移る。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。父はモネに船舶雑貨商や食料商売の道へ進むことをすすめたが、モネは芸術家になりたかった。一方、母は歌手だったこともあり、モネが芸術家になるのを後押ししてくれたという。
1851年4月1日、モネはル・アーブル美術学校に入学。モネは10〜20フランで木炭画の肖像画を描いて売っていたので、地元の人々はモネのことをよく知っていた。モネはまたジャック=フランソワ・オシャールから初めてドローイングの授業を受けている。
1856年頃にノルマンディーのビーチで、モネは友人で風景画家のユージニ・ブーダンに出会う。彼はモネのメンターとなり、油彩絵画の描き方を燃えに教えた。「自然の光をアトリエで再現することはできない」とブーダンから戸外での制作に誘われ、以後、自然の中の光と色彩を探求するようになった。また、ふたりともヨハン・バルトール・ヨンカンドの影響を受けた。
1857年1月28日、モネの母が死去。16歳でモネは学校を退学し、未亡人で子どもがいなかった叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルと住むことになる。叔母は母と同様にモネをアトリエに入れて美術の道に進むよう励ました。
パリへの移転と兵役
モネは、パリで絵を学びたいと思っていたが、父は強く反対する。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2000フランでパリに行きたいと伝えると、許可が降り、1859年4月、パリに出ることとなった。
パリでルーブル美術館を訪れると、古典巨匠の絵画をその場で模写する画家たちを目の当たりにしてモネは驚く。絵具道具を持ってきていたので、モネは代わりに窓辺に座り、自分が見た景色を描いた。
1861年3月、モネは兵役でアルジェリアのアフリカ騎兵隊(アフリカ騎士団)の第一連隊として7年間を過ごす。モネの父親はモネの徴兵免除権を購入できたかもしれないが、モネが絵を辞めるのを拒否したので、免除しなかったという。
アルジェリア滞在中、モネはカスバ建築や風景、さまざまな軍人の肖像画のスケッチを行っているが、それらはすべて消失した。1900年の「ル・タン」のインタビューで、モネは北アフリカの明るく鮮やかな光や色について「私の将来の研究となる胚芽があった」と話している。
モネはアルジェリアで約1年間兵役を務めたが、腸チフスを発症して病床に伏せる。回復に努めたものの、美術学校で学位を取得することを条件としてモネの叔母が、モネを除隊させるように働きかけ、モネは2年で除隊とすることになった。
パリ・サロンに入選し、画壇デビュー
1862年の美術学校に入学するもアカデミック美術に幻滅し、同年、モネはパリにいたシャルル・グレールのもとで学ぶ。
ここで、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーらと出会う。彼らとととに新しい芸術的価値観を共有し、点描画法や激しい筆致をともなう光の効果を表現した絵を描きはじめた。それはのちに印象派として知られるようになった。
1865年のサロン・ド・パリに、海景画《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》を初めて出品し、2点とも入選する。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの《オランピア》の真前に並べられた。マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。
1865年1月、2年前にパリ・サロンでの出品を拒否されたマネの《草上の昼食》と同じ主題の作品《草上の昼食》を制作に取り組む。しかし、作品サイズが非常に大きく、結局、期日までに完成することができなかった。その後、《草上の昼食》はカットアップされ、現在はオルセー美術館が所蔵している。
代わりにモネは《緑衣の女》を提出する。この作品で描かれている女性は、当時知り合った未来の妻になるカミーユ・ドンシューである。この絵と小さな風景画《シャイイの道》の両方がパリ・サロンで展示された。
翌年、モネは《庭園の女性》でもモデルとしてカミーユをモデルにしており、また1868年の《セーヌ河岸、ベンヌクール》でも彼女をモデルにしている。
カミーユは妊娠して、1867年に第一子ジャンを出産。モネとカミーユは普仏戦争直前の1870年6月28日に結婚。その後に7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、ロンドンやザーンダムへ移る。戦争が終わると二人は、1871年12月にアルジャントゥイユへ戻りアトリエを構えた。
アカデミーから独立した展示「印象派」展の始まり
1860年代後半から、モネと美術的価値を共有する画家たちは、年に1度、サロン・ド・パリで開催される展示会を企画する保守的な芸術アカデミーから、出品を拒否されるようになった。
1873年の後半に、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらは、「画家、彫刻家、版画家らの無名美術協会」を組織し、サロン・ド・パリとは別の独立した展示を企画をする。
展示はサロン・ド・パリ開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。
この第1回印象派展で、モネはこの展示に参加する画家のグループに永続的な名称となる作品《印象、日の出》を展示した。《印象、日の出》は、1872年にモネによって描かれた油彩作品で、ル・アーブルの港の風景を描いたもので、当時のモネはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネが扱う主題や描き方に影響されいてた。
第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァ』紙上で、美術批評家のルイ・レロイが、マネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、この展覧会のレビューを掲載する。
レビュー内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、揶揄する意味で使われていたが、逆に当の印象派の画家たち自身によっても使われるようになった。
《日の出、印象》のほかに、モネは4枚の油彩作品と7枚のパステル画を展示している。その中の一点1868年作の《昼食》は、妻カミーユと息子ジャンを描いたものである。この作品は1870年のパリ・サロンでの展示を拒否された。
ほかには1873年から1874年にかけて制作した《キャピュシーヌ大通り》を出品。これは大通りを行き交う群衆の姿を黒い単純な筆触で描いたものである。モネが表現しようとしたものは、個々の人物ではなく、無数の人々が行き交う大通りの活気であった。
普仏戦争による各地への転居
普仏戦争(1870年7月19日)が勃発した後、前と家族は9月にイギリスに避難し、そこでジョン・コンスタブルやウィリアム・ターナーらの風景画を研究する。この二人の巨匠の研究がモネの色彩における変革のきっかけとなった。
ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えた。
1871年5月、モネはロンドンを離れオランダのザーンダムへ移り、25枚の絵画作品を制作。
1871年秋、モネはフランスへ戻る。1871年の12月から1878年までパリ北西にあるアルジャントゥイユ村に住む。この村はパリジアンたちが休暇の日を過ごす場所として人気が高く、モネはこの地で代表作をいくつか制作している。
1873年、モネは水上アトリエとして利用するため小型のボートを購入。このボートアトリエでモネは風景画やエドゥアール・マネや妻の肖像画を描いた。1874年にマネは、ボート上でカミーユを描いているモネの絵である《アトリエ舟で描くモネ》を描いている。
カミーユの死
1876年、妻のカミーユ・モネが結核にかかる。2年後の1878年に二人の第二子ミハエル・モネが生まれる。同年の夏に、モネ一家はヴェトゥイユ村へ移り、そこでデパート経営者で美術コレクターだったエルネスト・オシュデのもとで共同生活を送るようになるが、カミーユは子宮がんと診断され、翌年の1879年9月5日に32歳で死去。
モネは彼女の死顔を油彩で描いた。それが《カミーユ・モネの死の床》である。
後年、モネは友人のジョルジュ・クレメンソーに色の分析、使い方には人生における喜びと苦痛の両方があると胸の内をあけ、「私はある日、最愛の妻の死顔を見て、自動反射的に光量の割合のようなものを設定したり、色味を設定していることに気がついた」と話している。
美術史家のジョン・バーガーは、本作品について「白、灰色、紫の吹雪、彼女の特徴と顔立ちが今後、永久に消失するという「喪失の吹雪」を描いている」と解説している。
印象派グループと決裂
1880年、パリ・サロンに10年ぶりに出品する。パリ・サロンに反発して独立した展示企画を行ってきたモネが、パリ・サロンへ出品した理由は、前年のパリ・サロンでルノワールが高い評価を得たことだった。
もう一つは、自身の経済状況が危うく、パリ・サロンに入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待があったからだという。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた《ラヴァクール》だけは入選した。
一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。こうしたことがあって、印象派グループは解散することになる。またこのころ、ルノワールが印象主義的作品から、伝統的なスタイルに回帰し、シスレー、セザンヌとともにパリ・サロンに応募しており、印象派グループ内で各自で大きなスタイルの変化が生じていた。
1880年6月、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開催される。《解氷》などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。
1881年初頭、デュラン=リュエルがモネとの間で、定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定し、印象派展、パリ・サロンのどちらにも出品する必要がなくなった。
二番目の妻アリスと再婚
1880年代にモネはさまざまな代表作を制作した。フランスの田舎を記録を目的とした風景画や海景画を多数制作する。光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、何度も同じ景色を記録した絵画シリーズを制作しはじめる。
モネの親友で同居していたエルネスト・オシュデが破産し、1878年にベルギーへ移る。1879年9月にカミーユが死去したあと、オシュデの妻でヴェトゥイユにとどまっていたアリス・オシュデが、モネの生活を支えるようになる。
二人の仲は深まり、1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネは、アリスと結婚したモネは彼女と再婚することになった。
画商ポール・デュラン=リュエルとの出会い
モネはノルマンディー地域のジヴェルニーで家と庭を借り、最終的にはそれらを購入する。1883年5月初頭、モネと6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)を含む家族は、地元の土地所有者から2エーカーの土地を家を借りた。
その家は大通りの近くに位置し、ヴェルノンとガニーの間にあった。納屋を改造したアトリエ、果樹園、小さな庭などがあった。家は子どもたちが通う地元の学校に近かったので、周囲の風景はモネが仕事をするモチーフにぴったりだった。
モネの引っ越し費用や生活をサポートしたのは画商ポール・デュラン=リュエルだった。モネの運勢は画商ポール・デュラン=リュエルと出会ってから変わりはじめた。
リュエルは印象派の画商で印象派グループの作品を積極的に購入していた。1874年の第1回印象派展の経済的失敗にもかかわらず、1876年の第2回印象派展に際しては、自分の画廊を開場に提供し、1882年の第7回印象派展でも、会場の確保に尽力した。
デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点余りを出品した。展覧会は好評で、この展覧会で、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。
19世紀末において、デュラン=リュエルは、ヨーロッパだけでなくアメリカでも市場開拓に成功し、フランス印象派の最も著名な画商、そして商業的支援者となっていた。
「睡蓮」シリーズ
モネは1893年に冠水牧草地を購入し、リュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作りはじめた。フランス国内の白睡蓮とともに南米とエジプトの輸入栽培品種の睡蓮を取り寄せて植え、池には黄、青、白ピンクの睡蓮が咲いた。
水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から大量に描かれるようになる。1900年までの「睡蓮」第1シリーズでは、太鼓橋を中心に睡蓮の池と枝垂れ柳が光の変化に従って描かれている。
1901年に睡蓮の池を拡張する工事を行い、1900年代後半まで「睡蓮」第2シリーズに取り組む。ここでは、第1シリーズの太鼓橋は見えず、池の水面だけが大きく描かれている。
また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていった。
晩年
モネの二番目の妻アリスは1911年に死去。モネの息子のジェーンは、モネのお気に入りだったアリスの娘のブランシェと結婚した。アリスの死後、ブランシェがモネの介護を行った。このころからモネは白内障にかかりはじめていた。
第一次世界大戦時、息子のミシェルは兵役を務め、友人でモネの協力者だったジョルジュ・クレマンソーはフランス軍を指揮する。この時期、モネはフランスの戦没者を敬意してシダレヤナギの絵画シリーズを制作する。1923年にモネは2度の白内障手術を受けた。白内障で視力に問題があったときに制作された絵画の特徴として全体的に赤みを帯びている事が多い。
モネは1926年12月5日、胃がんが原因で86歳で死去。ジヴェルニー教会墓地に埋葬された。モネは生前に簡素な葬式を主張していたため、約50人のみが葬式に参列した。
モネの自宅や庭や睡蓮池は、唯一の相続人だった息子のミハエルが受け継ぎ、1966年にフランス美術大学に譲渡された。クロード・モネ財団を通じて家や庭は、1980年に復元されたあと一般公開された。
公開されたモネの形見やゆかリの深い所持品、コレクションしていた日本の浮世絵なども展示された。モネの家や庭園は、印象派の博物館であり、また世界中から訪問する観光客を引きつけるジヴェルニーの主要観光スポットである。