キャンベルのスープ缶 / Campbell's Soup Cans
最も有名なアンディ・ウォーホルの作品
アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶作品は、1960年代のポップカルチャーを代表する作品として知られています。この記事では、ウォーホルのキャンベルスープ缶作品について、その作品概要や特徴、そしてその意味を詳しく解説します。また、ウォーホルがキャンベルスープ缶作品を制作した背景などもご紹介します。芸術史の一端を学びたい方、そしてウォーホルの作品に興味がある方は、ぜひご一読ください。
目次
1.概要
2.初期キャリア
2-1.ニューヨーク
2-2.ポップ・アート
3.個展開催
3-1.異なる32枚のスープ缶
3-2.食品のように陳列されたキャンバス
3-4.抽象表現主義に反発
3-5.伝統的な連作絵画との違い
3-7.シンプルさとミニマル・アート
3-9.ウォーホルに対する誤った解釈
概要
作者 | アンディ・ウォーホル |
制作年 | 1962年 |
メディウム | シルクスクリーン合成高分子、キャンバス |
サイズ | 51 cm × 41 cm×32枚 |
コレクション | ニューヨーク近代美術館 |
《キャンベルスープの缶》または《32のキャンベルスープの缶》は、1961年11月から1962年3月または4月にかけてアンディ・ウォーホルが制作した作品。32枚の51 cm × 41 cmのキャンバスから構成されている作品。
各キャンバスには当時のキャンベル・スープ・カンパニーが販売していた32種類のスープ缶が描かれており、それぞれ異なる絵画である。各作品は版画の手法、絵の具を使わないで半機械化されたシルクスクリーンで制作されている。
ウォーホルは、アートワールドで活動する以前は商業イラストレーターだった。《32のキャンベル・スープ缶》は、1962年7月9日、アーヴィン・ブルムのキュレーションにより、カリフォルニア州ロサンゼルスのフェルス・ギャラリーで行われたウォーホルの最初の個展で発表されたものである。この個展が、実質的にウォーホルのファイン・アートデビューとなる。
《キャンベルスープの缶》は、大衆文化から主題を得ることで、アメリカにおける大きな前衛芸術運動であるポップ・アートの生成と発展を導いた。ウォーホルは、このテーマとの関連から、以後キャンベル・スープ缶の絵の代名詞となった。
テーマは、当時、アメリカで流行していた抽象表現主義の技術や哲学を侮辱していることもあり、当初はアートワールドに不快感を与えた。ウォーホルの芸術家としての動機が問われた。
また、「キャンベルスープの缶」で上げたウォーホルの名声は、最も有名なアメリカのポップ・アートティストにしただけでなく、現存する最も高価なアメリカ人美術家の作品となった。
ウォーホルは、キャンベル・スープの缶を題材にした作品を3期に分けて制作し、その他にも商業やマスメディアの世界から様々なイメージを用いた作品を発表している。
そして今日、ウォーホルのキャンベル・スープ缶という作品は、一般的に最初の個展で展示したオリジナルの絵画一式《32のキャンベルスープの缶》と、オリジナル作品を描いた後のウォーホルのドローイングや絵画で描かれたキャンベルスープ缶の総称として使われることが多い。
重要ポイント
- ウォーホルのファイン・アートデビュー作
- 32種類の異なるキャンベルスープ缶が描かれている
- 当時流行していた抽象表現主義に反発する形でうまれている
初期キャリア
ニューヨーク
ウォーホルは、1949年にカーネギー工科大学美術学部からニューヨークに移り、1949年夏号『グラマー・マガジン』に初めて絵を発表する。その後、すぐに商業イラストレーターとして成功を収めた。
1952年、ボドリー・ギャラリーでトルーマン・カポーティにインスパイアされた作品を展示し、初の画廊展を開催した。このときウォーホルはまだイラストレーターであり、まだファイン・アーティストではなかった。
1955年には、ニューヨーク公立図書館の写真コレクションから借りた写真をネイサン・グラックの協力を得てトレースし、カーネギー工科大学の学生時代に開発したプロセスで再現するようになる。
当時は、湿ったインクで描いたイラストを紙で押し付けるという、後の彼の作品を予感させるような手法で描かれていた。1950年代にはドローイングの展覧会を定期的に開催し、近代美術館でも展覧会を行った。
ポップ・アート
1960年、ウォーホルは漫画を題材にした最初のキャンバスを制作し始める。1961年後半、1953年からティベール・プレスを経営していたフロリアーノ・ヴェッキからシルクスクリーンの工程を学ぶ。
キャンベルスープの缶は、ウォーホルが最初に手がけたシルクスクリーン作品のひとつだが、最初はアメリカのドル紙幣だった。この作品シリーズは、各色1枚ずつのステンシルから作られている。
なお、ウォーホルが写真をシルクスクリーンに変換し始めたのは、キャンベル・スープの缶のオリジナル・シリーズが制作された後のことである。
ウォーホルは漫画やほかのポップ・アートを題材としてシルクスクリーンを制作していたが、当時はロイ・リキテンスタインによる、より完成度の高い漫画スタイルとの競合するのを避けるために、題材をスープ缶に限定したと思われる。
ウォーホルは「リキテンシュタインやジェームズ・ローゼンクイストとは違う、とても個人的で、彼らがやっていることをそのままやっているようには見えない、本当に多くの影響を与えるようなことをしなければならない」と話していた。
1961年11月から1962年3月または4月の間に、ウォーホルはスープ缶のセットを制作した。
1962年2月、レオ・カステリ画廊で漫画絵の展覧会を開き完売する。これでウォーホルが自身の漫画絵を利用する可能性はゼロになった。
カステリは1961年にウォーホルの画廊を訪れ、そこで見た作品がリキテンスタインに似すぎていると話したが、ウォーホルとリキテンスタインの漫画作品は、当時、主題も手法も異なっていた。
ウォーホルの漫画絵の人物は、ポパイのようなポップカルチャーを戯画化したユーモラスなものであり、一方、リキテンスタインの作品は、冒険やロマンスを描いた漫画からインスピレーションを得て、ステレオタイプなヒーローやヒロインを描いたものが一般的だった。
1962年のリキテンスタインの展覧会に続いて、1962年4月17日にはウェイン・ティーボーがアラン・ストーン・ギャラリーでアメリカン・フードをテーマにした個展を開催した。ウォーホルは食品に関するテーマは、自身のスープ缶作品を危うくするものだと感じて動揺していた。
ウォーホルはボドレー画廊への復帰を考えていたが、ボドレーのディレクターはウォーホルののポップ・アート作品を好まなかった。
1961年、ウォーホルはアラン・ストーンの18 East 82nd Street Galleryで、ローゼンクイスト、ロバート・インディアナとの3人展への参加のオファーをされるが、3人ともこの展覧会に否定的だった。
アーヴィン・ブルムは、ウォーホルのスープ缶の絵を最初に展示した画商である。ブルムは1961年12月と1962年5月にたまたまウォーホルを訪ねたが、そのころウォーホルは、1962年5月11日付の『タイム』誌の記事「スライス・オブ・ケーキ派」(ウォーホルのシルクスクリーンによる200枚の1ドル札の一部を掲載)でリキテンスタイン、ローゼンクイスト、ウェイン・ティーボーとともに取り上げられている。
ウォーホルは、その写真が実際に記事になった唯一のアーティストであり、マスメディアを操る術に長けていたことがうかがえる。
ブルムは、この日『100のスープ缶』を含む何十ものキャンベル・スープ缶の作品を見た。ブルムは、ウォーホルがギャラリーの手配をしていなかったことにショックを受け、ロサンゼルスのフェルス・ギャラリーで7月の展覧会を提案した。これがウォーホルにとって初のポップアートの個展となる。
また、ブルムと創刊間もない『アートフォーラム』誌が、ウォーホルの展覧会を取り上げることを約束した。
1962年6月9日付けのブルムからウォーホルへの手紙で、展覧会のオープニングを7月9日に開催することを決めた。
個展開催
異なる32枚のスープ缶
ウォーホルは、キャンベル・スープの缶のポートレートを描いた32枚の20×16インチ(510mm×410mm)のキャンバスをブルムに送った。
32枚すべて異なる絵で、当時販売されていたキャンベル・スープのフレーバーの特定の種類を表現したものである。
32枚というキャンバスの数は、当時キャンベル・スープ・カンパニーが販売していた種類の数に対応していた。ウォーホルはキャンベル・スープ社の商品リストを参照にして、各作品に異なる味付けの名前を記している。
1962年6月26日、アーヴィン・ブルムからウォーホルに送られたハガキには、次のように書かれている。
「32枚が無事に到着した。美しい。初個展での作品価格は低く設定することを強く勧める」
32枚のキャンバスは、白地に赤と白のキャンベルスープの缶をシルクスクリーンでリアルに表現したものである。これらのキャンバスは、品名のレタリングに若干の違いがあるが、ほとんどのレタリングは赤い文字で描かれている。
4作品に黒文字がある。「クラムチャウダー」は品名と「スープ」との間に黒い文字が書かれているが、これはクリームベースのニューイングランドスタイルではなく、トマトとスープがベースのスープであることを意味しているという。
「ビーフ」は品名の下に黒文字で「野菜と大麦入り」と書かれている。「スコッチ・ブロス」は品名の下に黒文字で「ハートリー・スープ」と書かれている。「マインストローン」は品名の下に黒文字で「イタリアンスタイルの野菜スープ」と書かれている。
フォントの大きさは品名でわずかに異なるだけである。しかし、いくつかの顕著なスタイルのフォントの違いがある。「オールドファッション・トマトライス」は、小文字で書かれた唯一の品名である。
食品のように陳列されたキャンバス
1962年7月9日、ウォーホル不在のまま展覧会は始まった。32個のスープ缶が、棚に並べられた商品のように一列に並べられ、それぞれが細い棚に陳列されていた。
展示会場では、一見すると同じように見える作品が一斉に壁にかけられ、それはスーパーの食料品店の雑貨棚にぶらさがっているようだったという。
現代的なインパクトは何ともなかったが、歴史的なインパクトは今日、分水嶺であったとみなされている。ギャラリーに来た人々は、この展示をどう受け止めたらいいのか迷っていた。
ロサンゼルスの展示会場やウォーホルのスタジオで実際に絵を見た人はほとんどいなかったが、この絵が商品の外観を再現しようとしているように見えることから、論争やスキャンダルという形で噂が広まった。
ウォーホルの作品は、このようなありふれた商業用無生物モデルに力を注ぐことの利点と倫理について、美術界で長く議論され続けた。
識者たちは、芸術家が芸術鑑賞とは近所の食料品店に行くようなものだと言い切るとは信じられなかった。
ウォーホルにとって、この展示は商業的成功にはつながらなかった。デニス・ホッパーは、キャンバスに100ドルを支払ったわずか6人のうちの1人だった。
しかし、ブルムは、32枚のキャンバスをそのままのセットで残そうと考え、キャンバスを買い戻した。これには、セットで考えていたウォーホルも喜び、毎月100ドルの分割払い10回でセットをブルムに売却することに同意した。
ファイン・アーティストとしての節目の個展
ウォーホルは、初めてファイン・アーティストとして本格的な美術展を開くという節目を迎えていた。この展覧会がロサンゼルスで開催されている間、マーサ・ジャクソンは1962年12月に予定されていた別のニューヨークでの展覧会をキャンセルしている。
1962年8月4日、マリリン・モンローの死の前日に、フェルスの展覧会は閉幕した。ウォーホルはその後、映画『ナイアガラ』からモンローのスチール写真を購入し、それをトリミングして彼の最も有名な作品のひとつである「マリリン」の絵を描いた。
ウォーホルはその後もマーティンソンのコーヒー缶、コカコーラのボトル、S&Hグリーンスタンプ、キャンベルスープの缶などのポップ・アートを描き続け、セレブリティを描いたアーティストとして多くの人に知られるようになった。
1963年10月にエルヴィスとリズを展示するためにブルムのギャラリーに戻る。ウォーホルのファンのデニス・ホッパーとブルック・ヘイワード(ホッパーの当時の妻)が歓迎会を開いてくれたという。
ウォーホルは作品の並べ方を明確にしなかったため、MoMAが常設展示で設定した並べ方は、キャンベル・スープ社が品種を発表した年代順を反映している。左上のトマトは1897年に発売されたものである。
2011年4月、MoMAの学芸員は、クラムチャウダーを左上に、トマトを4列の一番下に移動させ、並びを変更した。
抽象表現主義に反発
半機械化された制作プロセスや、非絵画的なスタイル、さらに世俗的であつかましく感じる商業的なモチーフを大きく扱ったこの作品は、それまでアメリカの美術業界を先導していた抽象表現芸術の哲学や技術を直接的に侮辱した表現だった。
抽象表現主義運動はファイン・アートの価値だけでなく、どこか禁欲的で神秘的な雰囲気を漂わせていた。そうした環境の中で「キャンベルスープの缶」の登場は、倫理性や美術的価値において大きな論争を引き起こした。
ウォーホルは、大衆文化を肯定的に捉えており、抽象表現主義者たちが現代大衆文化の素晴らしさ否定することに多大な労力を費やしていると感じていた。
キャンベル・スープ缶のシリーズは、他のシリーズでもいえるが、現代の大衆文化に対する彼の肯定的な見方を表現である。しかし、ウォーホル作品の無機質さは、感情的なものや社会的批評を除去した。そのため、作品には個性がなく、個人的な表現もみられなかった。それこそが、ウォーホルの狙いであった。
ウォーホルの考えは、『タイム』誌の「スライス・オブ・ケーキ派」の記述に要約されている。
「画家たちは、現代文明の最も平凡で下品な表層をキャンバスに移し替えると、アートになるという共通の結論に達した」。
ファイン・アートへ転向したウォーホルの動機が疑問視され、今日においてもその問題は続いている。
伝統的な連作絵画との違い
ウォーホルのポップ・アートは、時間、光、季節、天候の移り変わりを手と目で再現できる連作絵画を制作したモネのような印象派作品とは異なる連作である。
擬似工業的なシルクスクリーンのプロセスの採用は、各作品の細部を明らかにするために連作を作ることとは正反対のものである。
ウォーホルは、商業化され、無差別に「同じもの」を求める現代社会を象徴するアーティストとして理解されている。
ウォーホルは自分の作品がまるで印刷されたように大量生産されていることを伝えるのが目的である。これまでの近代美術の連作絵画における独創性や微妙な差異を拒否するためのもので、そのために不完全な部分を体系的に再現したのである。
ほかのポップ・アーティストと明らかに違う記号性
《キャンベルスープの缶》は、ほかのポップ・アーティストたちとの差別化にもつながった。ポップ・アーティストの多くは、さまざまなマンガ、映画スターの写真、新聞紙など大衆文化のイメージを使って作品を構成していたが、《キャンベルスープの缶》は、ウォーホルの名前とキャンベルのスープ缶が同義語として語られるようになった。つまり、キャンベルのスープ缶はウォーホルを指し示す記号になった。
ウォーホルの連作絵画は、当時のポップ・アートの代表者だったリキテンスタインの存在から逃れるにも役立った。
これは、マリリン・モンローとセックスを同義語として語るのちの作品にも言える。マリリン・モンローや毛沢東など、マスコミの世界や商業の世界からさまざまな大衆的イメージを借りて制作を行った。
シンプルさとミニマル・アート
また、ウォーホルのポップ・アートは、対象を最もシンプルですぐに認識できる形で描こうとしたという意味で、ミニマル・アートとの関連性を見出すことができる。
反復手法とコンセプチュアル・アート
ウォーホルは、美術鑑賞の概念を明らかに変えた。これまでの調和のとれた立体的な物の配置の代わりに、商業イラストレーションの機械的な派生を選び、パッケージに重点を置いた。
同じ大きさで同じイメージを繰り返して、キャンベル缶の均一性や偏在性を強調することで、発明性や独創性のメディウムとして絵画の理想を覆した。
このような視覚的反復行為は、広告業界が長い間、一般庶民の意識に浸透させるために利用してきた手法でもあった。しかし、ウォーホルにとってキャンベル缶の反復は真摯的なものの象徴だった。
「キャンベルスープの缶を50回繰り返すと、網膜的絵画としての興味を失うでしょう」とウォーホルは話す。
マルセル・デュシャンの言葉を借りれば、鑑賞者が興味を抱くのは、キャンベルスープ缶ではなく、キャンベルスープ缶が50個も並んでいるという概念になるのだ。こうした点で、ウォーホルのキャンベル・スープ缶は、コンセプチュアル・アートでもある。
ウォーホルに対する誤った解釈
ヨーロッパでは、ウォーホルの作品に対して非常に異なった見方をしていた。多くの人は反復されたキャンベル缶について、アメリカの資本主義に対する破壊的なイメージで、それはマルクス主義的な風刺として認識していた。
破壊的でないとしても、少なくともポップカルチャーに対するマルクス主義的な批判と考えられていた。しかし、ウォーホルは左翼でもマルクス主義的なところでもない。ウォーホルの政治に対する無関心さから分析すれば、これは資本主義に対する批判的なメッセージではないだろう。
スープ缶は、ほかの初期のポップ・アートほど衝撃的で下品ではなかったが、それでもアートワールドの人々の感性を逆撫でた。
カラヴァッジョの官能的な果物籠やシャルダンの豪華な桃、セザンヌの鮮やかなリンゴの配置とは対照的に、平凡なキャンベルスープの缶は美術界に寒気を与えた。
さらに、誰もが知っているポップカルチャーのアイテムを独立させるというアイデアは、美術界にとって馬鹿げていた。