カミーユ・ドンシュー / Camille Doncieux
モネの最初の妻で印象派の代表的モデル
概要
カミーユ=レオニー・ドンシュー(1847年1月15日 - 1879年9月5日)は、フランスの画家クロード・モネの最初の妻。クロードとの間に2人の息子をもうけている。
カミーユは、パリのサロンで批評家の称賛を受け、アルセーヌ・ウーセイに売却された際に800フランを売り上げた絵画《緑衣の女》をはじめ、さまざまな作品のモデルをつとめた。
モネのミューズであり、人気モデルであることに加え、彼女はピエール・オーギュスト・ルノワールやエドゥアール・マネのモデルにもなった。
略歴
若齢期
カミーユ=レオニー・ドンシューは、1847年1月15日、現在のフランス、リヨンの一部であるラ・ギヨティエールの町で生まれた。父シャルル・クロード・ドンシューは商人であった。
第二次フランス帝国時代(1852-1870)の初期に、シャルルは妻と娘を連れてパリのソルボンヌ大学近くに移り住む。
1857年に妹のジュヌヴィエーヴ=フランソワが誕生して数年後、一家はバティニョール(現在のパリ北西部の一角)に移り住む。バティニョールは芸術家たちに人気のある街だった。
カミーユは10代でモデルの仕事を始める。1865年に7歳年上のモネと出会い、彼のモデルとして数々の絵画のポーズを務めた。同時にモネの愛人であった彼女は、モネは当時貧しい生活を送っていた。
モネの叔母と父はカミーユとの交際を認めなかった。カミーユがモネの長男を腹に宿している間、モネは彼女をパリに残して、叔母の田舎の屋敷に別居し、モネ家族から毎月しおくりをもらい、カミーユとの関係を隠していた。カミーユは生活費もないまま、パリに取り残されていたという
結婚と子ども
1867年8月8日、パリでカミーユ・ドンシューは、クロード・モネとの間に長男ジャンを出産した。
サント=アドレスにいる父と叔母のソフィー・ルカドルを訪ね、夏を過ごしていたクロードは、カミーユの出産のためにパリに戻り、その後数日間滞在したあと、サント=アドレスに戻った。
年末の休暇にパリに戻り、カミーユがジャンが暮らしていた寒いワンルーム・アパートに滞在した。
1868年、モネはパリでカミーユとジャンと暮らすことになったが、「愛人と子供」を捨てたと思っていた父や叔母にはその事実を隠し続けた。
債権者から逃れ、物価の安いところで暮らすために、春になると3人はベネクール近郊の風光明媚な小さな村、グロトンに移り住むことにした。宿泊していた宿屋を未払いで追い出されたのだった。カミーユとジャンは田舎に住む人のところに泊まることが可能で、またモネは生活費を確保しようとした。
カミーユとモネは、1870年6月28日にパリ8区で市民結婚式を挙げた。画家ギュスターヴ・クールベが立会人となった。モネの父親は結婚を認めなかったため欠席したが、カミーユの両親は式に出席した。
カミーユは結婚の際、1200フランの持参金を受け取った。これは、父親の死後に受け取る元本投資の2年分の利子に相当する。両親は、持参金をカミーユ名義の別口座に保管するようにしていた。これは、モネの債権者からお金を守るためであった。
新婚旅行で息子のジャンを連れてトゥルーヴィル・シュル・メールに行き、ホテル・トリヴォリに宿泊した。債権者から逃れつつ、モネは普仏戦争での徴兵も避けようとした。
モネはカミーユと息子を残し、病弱な父を見舞うためにル・アーブルに行き、その後、父から得た金でイギリスに向かったと思われる。カミーユとジャンは1870年10月、イギリスでモネと再会した。
1871年初めには、ロンドンのバース・プレイス(現在のケンジントン・ハイストリート)に住んでいた。モネがロンドンで描いた唯一のカミーユの絵は、この場所で描かれた。《安息》と題されたこの絵は、長椅子に腰掛け、膝の上に本を置いているカミーユを描いている。
コレクターのアーネスト&アリス・ホシェッド夫妻は、贅沢な生活で財産を失った後、モネらと暮らすようになった。最初はヴェトイユで暮らし、その後、ヴェトイユからラ・ロッシュ=ギュイヨンへの道沿いにある大きな家に移り、12人のオシェデとモネの家族と一握りの使用人を養った。
1878年3月17日には次男のミシェルが誕生し、カミーユの体調不良はさらに悪化した。
死
モネ夫妻のもとにホシェッド一家がやってきてから、カミーユは病気になった。モネが絵画を売って得たお金の多くは、彼女の治療費にあてられた。アリスはカミーユの看病をした。
死の床で、1879年8月31日、司祭によって最後の儀式が行われた。また、モネ夫妻の民事婚を宗教的に承認した。
1879年9月5日、骨盤癌(死因は結核あるいは中絶失敗とする資料もある)でヴェトイユで死去。モネは死の床にある彼女を描いた。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Camille_Doncieux、2022年1月13日アクセス