【美術解説】ベルリン・ダダ

ベルリン・ダダ / Berlin Dada

政治性や社会性と密接なダダ運動


概要


ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。

 

政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演などの表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。

 

1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。

 

ハンナ・ヘッヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン·ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒらとフォトモンタージュを開発した。

 

ドイツのダダイストたちは過激な政治雑誌を発行し、1920年には「第一回国際ダダ展覧会」を開催した。ベルリンのダダイストとしてよく知られているのは、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ゲオルゲ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、ラウル・ハウスマン、ヨハネス・バーダー、ハンナ・ヘッヒ、ヴァルター・メーリング、ゲルハルト・プライス、ヴィーラント・ヘルツフェルデなどである。

 

なおダダ展示会にはマックス・エルンストやフランシス・ピカビアも参加した。そのなかには、1937年のナチスの頽廃芸術展に出展されたものもいる。

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