美しい息、ヴェールの水 / Belle Haleine, Eau de Voilette
デュシャンのレディメイドへの挑戦

概要
作者 | |
制作年 | 1920-1921年 |
サイズ | 16.5 x 11.2 cm |
メディウム | 写真 |
所蔵 | 個人蔵 |
『美しい息、ヴェールの水(ベル・ハレーヌ)』 は、1920年から1921年にかけて マルセル・デュシャンがマン・レイの協力を得て制作した修正レディメイド です。
この作品の本体は、リゴー社の香水瓶。デュシャンは、そのラベルを新たにデザインし、元の意味を覆しました。一般に芸術とは見なされない 日常の実用品が、わずかな改変によってアートとして提示される というこの手法は、デュシャンの「レディメイド」の概念を象徴するものです。
また、この香水瓶はマン・レイによって撮影され、1921年4月発行の『ニューヨーク・ダダ』誌の表紙を飾りました。このことで、単なるオブジェとしての存在を超え、印刷物として広く流通し、概念的な芸術作品へと昇華された とも言えます。
デュシャンはこのボトルを、ジャン・クロッティの元妻であるイヴォンヌ・シャステル=クロッティに贈呈。イヴォンヌは生涯この作品を手元に置き続けました。初めて公に展示されたのは 1965年、ニューヨークのコルディエ&エクストローム・ギャラリーの展覧会 でした。
その後、この作品は2009年にパリのクリスティーズで1,150万ドル(約8,913,000ユーロ)で落札。これは、デュシャン作品のオークション落札価格として最高額を記録しました。
芸術的意義
マルセル・デュシャンは、香水メーカー パルファン・リゴーのボトル からラベルを剥がし、マン・レイとともに新たなデザインを施しました。これにより、ボトルは単なる既製品(レディメイド)ではなく、芸術家の手が加えられた「アシステッド・レディメイド」として再構築されました。
この新しいラベルに描かれたのは、デュシャンの分身 「ローズ・セラヴィ」。この名前は、1920年のレディメイド作品『なりたての未亡人』の署名として初めて登場し、翌1921年にはラベルのモデルとして初めて視覚化されました。以降、デュシャンはこの名前を自身の作品に署名する際に使用し、マン・レイは彼が女装した姿を捉えた写真シリーズを制作し続けました。
デュシャンのアイデンティティの流動性は、『L.H.O.O.Q.』(1919年)でモナリザに髭を描き加えた行為と共鳴しています。モナリザは男になり、デュシャンは女になった。 彼の作品に繰り返し現れるジェンダーの転換は、単なる遊びではなく、固定された価値観への挑戦であり、芸術そのものの枠組みを問い直す試みだったのです。
このオブジェには、デュシャンが生涯を通じて探求した 芸術の本質とアイデンティティ に関するいくつもの問いが込められています。
まず、「作家性」 という問題があります。リゴーが製造した香水のボトルに、デュシャンとマン・レイが手を加えたことで、オリジナルの製作者は誰なのか、どこまでが芸術家の創造物なのかという問いが浮かび上がります。
さらに、ジェンダー・アイデンティティへの挑戦も見逃せません。女性用の香水でありながら、デュシャン自身が主要なイメージとして用いられている点は、彼の 自己変容の試み を象徴しています。彼が創り出した「ローズ・セラヴィ」という人格は、単なる仮の名前ではなく、芸術を通じた自己の拡張であり、固定的な性の概念を揺るがすものでした。
加えて、この作品には 嗅覚・触覚・味覚の暗示 も内包されています。香水の持つ 匂い という感覚的要素に加え、ボトルという 触れることができる物体、さらには「香水=味わうものではない」という前提の転覆が、作品に官能的・性的なニュアンスを与えています。
タイトルに込められた意味
「Haleine」という単語の意味
作品のタイトルに使われている 「Haleine」 はフランス語の 女性名詞 で、「息」を意味します。さらに、ギリシャ語の「psykhḗ(プシュケー)」=「生命の息」とも関連し、精神的な要素を含む意味 も持っています。
フランス語と英語の二重の意味
しかし、ボトルのラベルに記された都市名「NewYork」と「Paris」からは、フランス語と英語の両方が意識されていることがわかります。もし「Haleine」をフランス語とアメリカ英語を混ぜた発音で読むと、「Hélène(エレーヌ)」に近い響きになります。これは英語の「Helen(ヘレン)」にあたり、ギリシャ神話に登場するトロイ戦争のきっかけとなった絶世の美女、スパルタ王女ヘレンを指します。
オッフェンバックのオペレッタとの関係
この名前は ャック・オッフェンバックのオペレッタ『美しきエレーヌ(La Belle Hélène)』 に由来すると考えられます。この作品は、ギリシャ神話をパロディ化した内容 で、スパルタの王妃ヘレンが夫メネラオスを捨ててパリスと駆け落ちする話を描いています。
デュシャンとマン・レイによる「誘拐」
このオペレッタでは、トロイの王子パリスがヘレンを「誘拐」します。これになぞらえ、マン・レイがこの香水瓶を写真に収めた行為 は、まるで「パリスがヘレンを奪った」かのように解釈することもできます。さらに、デュシャン自身も以前から**「Paris(パリ)」という言葉に、「フランスの首都」と「ギリシャ神話の英雄パリス」という二重の意味を持たせる遊び** をしていました。
エウリピデスの悲劇『ヘレン』との関係
デュシャンの作品のインスピレーション源の一つは、ギリシャの劇作家エウリピデスの悲劇『ヘレン』である可能性があります。この作品では、実際にトロイへ行ったのは本物のヘレンではなく、神々によって作られた「幻影(eidōlon)」であった という新たな解釈が提示されます。ヘレンの「影のような存在」が戦争を引き起こしたという設定は、「本物と偽物」「現実とイメージ」というテーマを重視するデュシャンの芸術観とも一致しています。
香水瓶が持つ象徴的な意味
『美しい息、ヴェールの水(Belle Haleine, Eau de Voilette)』のボトルは、1993年のヴェネツィアのデュシャン展で展示された際、空っぽでした。つまり、香水瓶には「息」や「香り」といった「見えないもの」が閉じ込められているが、それはすでに消え去っている という状態を示していたのです。しかし、形あるものには常に「内容」が求められます。デュシャンのユーモアと「精神」は、また新たな香水とともに瓶に閉じ込められる可能性がある のです。
「ヴェール」に隠されたもの
デュシャンはこの作品に「Voilette(ヴェール)」という言葉を加えることで、「隠すことで明らかにする」という芸術的な仕掛けを作りました。つまり、香水瓶には「何もない」が、観る者の想像力によって「何かがある」と感じさせる というデュシャンの芸術の特徴を示しているのです。
このように、『美しい息、ヴェールの水(ベル・ハレーヌ)』は、言葉遊び、ギリシャ神話、芸術の本質に対する問いかけを巧みに組み合わせた作品であり、デュシャンの思想が詰まったレディメイドの代表作の一つとなっています。