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【美術解説】アンディ・ウォーホル「ポップ・アートの巨匠」

アンディ・ウォーホル / Andy Warhol

ポップ・アートの巨匠


アンディ・ウォーホル《32のキャンベルスープの缶》,1962年
アンディ・ウォーホル《32のキャンベルスープの缶》,1962年

アンディ・ウォーホルは、20世紀後半以降のアートの代名詞ともいえる存在です。ポップ・アートの旗手として、ファイン・アートとセレブリティ文化、そして大衆広告を融合させた。今回は、商業イラストレーターとしてキャリアをスタートさせ、ファインアートに移行していく過程を中心に、彼の作品やアプローチ、影響を深堀りしていきます。アンディ・ウォーホルの人生と作品に触れ、彼の遺産の真の美しさを発見してください。さあ、本題に入りましょう。

目次

概要


本名 アンドリュー・ウォーホラ
生年月日 1928年8月6日
死没月日 1987年2月22日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、ドローイング、シルクスクリーン、版画、映画、写真、音楽、出版物
関連人物 ジャン・ミシェル・バスキアキース・ヘリング
ムーブメント ポップ・アート
代表作品

キャンベルスープ缶

マリリン・モンロー

チェルシー・ガールズ

アンディ・ウォーホル(1928年8月6日-1987年2月22日)はアメリカの美術家。

 

ポップ・アートムーブメントを率いた代表的な人物として知られており、ファイン・アートとセレブ文化と1960年代に流行した大衆広告における関係性を表現した。

 

商業イラストレーターとして成功した後、ファイン・アートへ転身して成功した珍しいタイプである。

 

ウォーホルの作品ではさまざまなメディアが利用される。ドローイング、ペインティング、シルクスクリーン、写真、版画、彫刻、映像、音楽など数えるときりがない。

 

著作活動も多い。『インタビュー・マガジン』誌の創刊をはじめ、『アンディー・ウォーホルの哲学』や『ポップイズム:ウォーホルの60年代』など、膨大な数の著作物を残している。

 

特に自分の回顧にもこだわっており、膨大な数の回顧展、自伝、ドキュメンタリーフィルムを制作している。

 

ウォーホルの有名な言葉として将来には誰でも15分間有名になれる」「僕を知りたければ作品の表面だけをみて」というのがある。

 

ウォーホル作品の大半は、美術市場においても人気が高く、常に高価格である。1963年の作品《シルバー・カー・クラッシュ》は1億500万ドルの価格で売買された。

 

また、ロックバンドのヴェルヴェット・アンダーグラウンドをプロデュースし、当時のパンク・ロックムーブメントサブカルチャーにも多大な影響を与えた。

 

ウォーホルの制作スタジオ「ファクトリー」はドラーグクィーン、ボヘミアン、脚本家、ストリート系、ハリウッドセレブ、富裕層のパトロンなどハイカルチャーからアンダーグラウンドまで人が集まっており、サブカルチャーの巣窟となっていた。

 

ウォーホルは同性愛者解放運動の前に同性愛者として公然として生きていた。

 

1968年6月、ウォーホルは過激派フェミニストのヴァレリー・ソラナスに撃たれ死の淵をさまよった。胆嚢 手術後、ウォーホルは心不整脈で亡くなった。1987年2月にニューヨークで58歳だった。

 

ウォーホルの故郷であるペンシルヴァニア州ピッツバーグにあるアンディー・ウォーホル博物館では、膨大な数のウォーホル作品の収蔵とウォーホルの記録を保管している。個人のアーティストの博物館ではアメリカでは最大である。

 

アメリカ現代美術において最も議論の対象となるアーティストだった。

重要ポイント

  • アメリカのポップ・アートの巨匠
  • 絵画、映像、音楽などあらゆるメディアを横断して表現した
  • ハイカルチャーからポップ・カルチャー、アンダーグラウンドまでフラットに活動した

作品解説


撃ち抜かれたマリリン
撃ち抜かれたマリリン
マリリン二連画
マリリン二連画
キャンベルスープ缶
キャンベルスープ缶
金のマリリン・モンロー
金のマリリン・モンロー

チェルシー・ガールズ
チェルシー・ガールズ
毛沢東
毛沢東

ウォーホルに関する記事


雑誌「インタビュー」
雑誌「インタビュー」
スタジオ「ファクトリー」
スタジオ「ファクトリー」

略歴

若齢期


アンディ・ウォーホルは、1928年8月6日、ペンシルバニア州のピッツバーグで生まれた。本名はアンドリュー・ウォーホラ。父オンドラジ・ウォーホル(1889-1942)と母ジュリア・ウォーホル(1892-1972)の4人目の子どもだった。

 

ウォーホルの両親は、アメリカに移住する前はオーストリア=ハンガリー二重帝国のミコー(現在のスロバキア北東部)出身の労働者階級のレムコ人だった。

 

父は1914年にアメリカへ移住、母はウォーホルの祖父母が死去したあと、1921年に遅れてアメリカへやってきた。

 

ウォーホルには2人の兄がいた。長男パヴォル(ポール)は、オンドラジとジュリアの祖国(当時のオーストリア・ハンガリー二重帝国)で生まれている。次男ジョンはピッツバーグで生まれた。長男パヴォルの息子ジェームズ・ウォーホルは絵本作家として成功している。

 

ウォーホルの父はアメリカでは炭鉱で働き、ウォーホル一家はピッツバーグの隣のオークランドで暮らしていた。宗派はビザンツ・カトリック系で、敬虔深い両親のもと、毎日のように聖ヨハネ・クリソストム・ビザンティン・カトリック教会に通っていたという。

 

小学3年生のときに、ウォーホルは顔や手足に痙攣が起こる神経系疾患「シデナム舞踏病」にかかる。これは皮膚の色素沈着を起こす猩紅熱の合併症と考えられ、身体から色素を失うようになった。

 

その後、ウォーホルはたびたび心気症となり、病院や医者を極度に恐れ、また学校に行くこともできなくなる。このころから母親の側で寝たきり状態のひきこもりとなり、ウォーホルのマザコンが始まる。

 

しかし、ベッドにひきこもり、母親の側にいつもくっついている時代に自身のパーソナリティを育んだ。ウォーホルはラジオを聴き、絵を描き、映画スターの写真をコレクションしてひきこもり生活を楽しんだ。

 

のちにウォーホルは、このひきこもり時代は自身のパーソナリティの発展においてとても重要で、のちの芸術的才能のルーツとなったと話している。ウォーホルが13歳のとき、父は事故で亡くなった。

 

1945年にウォーホルはシェーンリー高校を卒業。10代の頃、スコラスティック・アート&ライティング賞も受賞している。

 

その後、ウォーホルは美術教師になることを目指してピッツバーグ大学へ入学し、美術教育の勉強をする。しかし、途中で教師になることはやめ、ピッツバーグのカーネギー工科大学へ入学。

 

そこでウォーホルは商業美術の勉強を始めた。この時代にウォーホルは、モダン・ダンス・クラブやボザール・アート・ソサエティに参加し、また学生美術誌『Cano』の美術ディレクターを務め、1948年に表紙のイラストレーションを担当、1949年には全ページにイラストレーションを担当した。

 

ウォーホルは1949年に絵画デザインに美術学士号を取得し、その後、ニューヨークに移動し、雑誌のイラストレーションや広告で、仕事のキャリアをスタートさせた。

幼いウォーホル(右)と母のジュリア、兄のジョン(左)
幼いウォーホル(右)と母のジュリア、兄のジョン(左)

商業イラストレーター時代の50年代


ウォーホルの初期のキャリアは商業美術と広告美術にわけられた。最初の仕事は1940年代後半に『グラマー』誌のために靴を描くことであった。

 

1950年代、ウォーホルは靴の広告で個性的なインクドローイングを描いて知名度を高めていった。この頃の作品では、特にイスラエル・ミラー社の靴の広告が有名。

 

1952年には、イスラエル・ミラー靴店の広告デザインが新聞広告美術の部門でアート・ディレクターズ・クラブ賞を受賞した。また『ヴォーグ』などのファッション誌広告やウィンドウ・ディスプレイを手がける。

 

1952年に初個展を開催。場所はニューヨークのヒューゴ・ギャラリーだった。

 

このころはまだファイン・アーティスト(ポップ・アート)とみなされなかった。展示はあまり評判が良くなかった。その後、50年代に何度か個展を開いているが、絵はほとんど売れなかった。

 

この頃に母との共同生活を始めるようになる。1952年に友人やダンサーたちの共同生活からアパート暮らしに移り、母ジュリアをニューヨークに呼んで暮らすようになる。

 

ジュリアはもともとレタリングが得意で、ウォーホルのイラストに文字を書くアシスタントをすることになった。また、鼻を整形手術し、かつらを着用するにようになる。そして、名前を本名のアンドリュー・ウォーホラからアンディー・ウォーホルに変える。

 

このウォーホルの手法は、「ブロッテド・ライン」と呼ばれており、それは非吸水性の紙の上に描いた線画にインクのせ、紙を被せて転写するという方法だった。この技法で描かれた線は、ところどころにじんだり線が消えたりして、ウォーホル独特な繊細な線を生み出した。

 

トレーシングペーパーとインクを使うことで、基本的なイメージを繰り返すことができ、またテーマに沿って無限のバリエーションを生み出すことができた。

 

アメリカの写真家ジョン・コープランズは次のように回想している。

 

「アンディのような靴を描く人はいない。彼はどういうわけか、それぞれの靴に独自の気質を与えていて、トゥールーズ・ロートレックのような資質があり、形やスタイルは正確に伝わり、バックルはいつも正しい位置にあった。

 

アンディがニューヨークでシェアしていたアパートの子供たちは、アンディの靴の絵のヴァンプがどんどん長くなっていることに気づいていたが、(イスラエル)ミラーは気にしなかった。ミラーはこの絵が大好きだった」。

 

また、1950年代はレコード業界、ビニールレコード生産、Hi-Fi、ステレオ録音が同時的に拡大していった時期で、RCAレコードは、アルバムのカバーや広告のデザインの仕事をウォーホルに依頼するようになった。

 

ウォーホルはこのころに絵画制作の手段として、シルクスクリーンを取り入れはじめている。ドローイングも含めた絵画における初期シルクスクリーン作品は、その後すぐに、写真作品にも転用されることになった。

 

ファイン・アート業界に転向する以前、ウォーホルの商業芸術時代におけるシルクスクリーンという方法は、ファイン・アート業界において、特に版画作品に関連するかたちで革新的な技術をもたらした。

 

1956年にはニューヨーク近代美術館での最初のグループ展に参加した。1957年にウォーホルは、靴の広告を描いた画を、1957年にニューヨークのボドレー・ギャラリーで開催された彼の初期の展覧会で発表した。

ウォーホルによるイスラエル・ミラー社の靴の広告。
ウォーホルによるイスラエル・ミラー社の靴の広告。
ブロッテド・ラインを使ったウォーホルの50年代の作品。自動車、靴、ポートレイト作品が多い。
ブロッテド・ラインを使ったウォーホルの50年代の作品。自動車、靴、ポートレイト作品が多い。

ウォーホルは、エピディアスコープで投影された写真をトレースするという方法をよく使っていた。

 

最初のボーイフレンドだったエドワード・ワロウィッチのプリントを使い、ウォーホルがしばしば輪郭のトレースや陰影のハッチングをざっと行う間に、写真は微妙に変化していった。

 

1958年にサイモン&シュスターの依頼で描いたウォルター・ロスのパルプ小説『不死身』の表紙のデザインにワロウィッチの写真『タバコを吸う青年』(1956年頃)を使用し、その後一連の絵画に他の写真を使用した。

ウォルター・ロスのパルプ小説『不死身』の表紙のデザイン
ウォルター・ロスのパルプ小説『不死身』の表紙のデザイン

ポップ・アーティストとしての60年代


1950年代からウォーホルは個展を開催していたが、ファイン・アートとして扱われるようになったのは、ロサンゼルスのフェラス・ギャラリーで、1962年7月9日に最初の個展をおこなってからである。

 

ウォーホルは絵画制作の技法としてシルクスクリーン版画のプロセスを早くから採用していた。1962年、ウォーホルはマンハッタンでグラフィック・アートを営むマックス・アーサー・コーンにシルクスクリーン版画の技法を教わった。

 

1962年5月、ウォーホルは『タイム』誌の記事で『キャンベル・スープ缶と缶切り(野菜)』(1962年)を紹介された。この作品は、彼の最も有名なモチーフであるキャンベル・スープ缶の始まりとなった。

 

その絵は1962年7月にハートフォードのワズワース・アセナムで展示され、ウォーホルの美術館での初公開となった。

 

ウォーホルの初期のモンローの絵は、1962年にエレノア・ワードのステイブル・ギャラリーで行われたニューヨークでの最初の展覧会で展示された。そこで、彼の知名度を飛躍的に向上させた。

 

レオ・カステリ・ギャラリーのディレクター、アイヴァン・カープは、その展覧会以前から、ウォーホルの代理人を務めるよう上司に懇願していた。

 

しかし、カステリは、すでに自分が代理人を務めていたロイ・リキテンシュタインの作品とあまりにも似ていると考えた。

 

ウォーホルは、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラらと並ぶカステリにどうしても入りたかったので、断られたことに深く落胆した。

 

1962年7月9日、ロサンゼルスのフェラス・ギャラリーでキャンベル・スープ缶の展示が始まり、ポップ・アートの西海岸デビューとなった。このとき、32点のキャンベル・スープ缶を描いたキャンバスを並べた。また、この展覧会は西海岸でのポップ・アーティストとしてのデビューとみなされている。

 

ウォーホルのニューヨークでの最初のポップ・アーティストとしての個展は、1962年11月6日から24日までステイブル・ギャラリーで開催された個展とみなされている。

 

《マリリン二連画》《金のマリリン》《100個のスープ缶》《100本のコーラ瓶》《100ドル紙幣》などの現代までよく紹介される代表作作品を展示した。《金のマリリンゴールド》は建築家フィリップ・ジョンソンが購入し、ニューヨーク近代美術館に寄贈された。

 

タイトルのほとんどは、ライフセーバーのキャンディーのフレーバーに由来している。価格は1本250ドルだった。

 

カープとカステリはオープニングレセプションに出席し、「マリリン」作品のの迫力と美しさに圧倒され、その場を後にした。カステリは、絵画の売れ行きと同様に、ウォーホルのことを誤解していたことをカープに打ち明けた。

 

この間違いはすぐに修正され、ウォーホルは2回目のステーブル・ギャラリーでの展示の後、レオ・カステリ・ギャラリーへの参加を要請された。この展示では、彼の象徴であるブリロ・ボックスを使った歴史的な展示となった。

 

また、この個展で、1964年に制作したウォーホルの映画『スリープ』で、スターを演じた詩人のジョン・ジョルノに初めて出会う。

 

1960年代、ウォーホルは、ドル紙幣、キノコ雲、電気椅子、キャンベル・スープ缶、コカ・コーラ瓶といったアメリカのイコン的なオブジェや、マリリン・モンローやエレビス・プレスリー、マーロン・ブランド、トロイ・ドナヒュー、モハメッド・アリ、エリザベス・テイラーといったアメリカのスターたちをモチーフにしたシルクスクリーンを制作しはじめる。

 

ほかには新聞の見出しや市民運動を攻撃する警察犬の写真などもモチーフにした作品も制作。

 

またこれらの作品を制作していた時期に、スタジオ「ファクトリー」を創設。ファクトリーには、アーティストをはじめ、ミュージシャン、作家、アンダーグラウンドスターなどさまざまなジャンルの人達が集まってきた。ウォーホルのポップ・アートは大人気となったが論争をともなった。ウォーホルはコカ・コーラについてこう話している。

 

「この国の素晴らしいところは、アメリカは最も裕福な消費者は最も貧しい人と同じ商品を購入するという伝統から始まったことだ。みんながテレビを見て、コカ・コーラを見て、大統領がコカ・コーラを飲み、リズ・テイラーがコカ・コーラを飲み、そして一般大衆もまたコカ・コーラを飲む。コークはコークであり、街の隅っこで浮浪者が飲むコーラより良い味のコーラはない。すべてのコークの味は同じで、すべてのコークは素晴らしい。そのことは、リズ・テイラーも大統領も、そして一般大衆も理解しているはずだ。」

大量消費社会・市場主義の受容


1962年12月、ニューヨーク近代美術館でポップ・アートに関するシンポジウムが開かれ、ウォーホルのようなアーティストが消費社会主義に「屈服」しているとして非難された。

 

批評家たちは、ウォーホルが市場主義文化を公然と受け入れていることに愕然とし、それがウォーホルの評価の基調となった。

 

ウォーホルは1964年春、ステーブル・ギャラリーで2度目の個展を開き、倉庫をイメージした空間に市販の箱を積み上げ、散乱させた彫刻を展示した。

 

この展覧会のために、ウォーホルは木箱を特注し、そこにシルクスクリーンで絵画を施した。「ブリロの箱」「デルモンテの桃の箱」「ハインツのトマトケチャップの箱」「ケロッグのコーンフレークの箱」「キャンベルのトマトジュースの箱」「モットのリンゴジュースの箱」などの作品で、箱の大きさによって200ドルから400ドルで販売された。

1968年、モデルナ美術館での展覧会のオープニング。美術館に届いた500個のブリロ・ボックスを前にしたアンディ・ウォーホル。
1968年、モデルナ美術館での展覧会のオープニング。美術館に届いた500個のブリロ・ボックスを前にしたアンディ・ウォーホル。

極めて重要な展示は、1964年にアッパー・イースト・サイド・ギャラリーで開催された「アメリカン・スーパーマーケット」である。

 

この展示で典型的なアメリカの小さなスーパーマーケットを表現したインスタレーションでは、農産物、缶詰、肉、壁のポスターなどで空間が敷き詰められた。ウォーホルをはじめ、ビリー・アップル、メアリー・イーマン、ロバート・ウォルツなど、6人のポップ・アーティストが参加。

 

ウォーホルは、12ドルの紙製の買い物袋をデザインし、真っ白な袋に赤いキャンベル・スープの缶を入れた。

 

キャンベル・スープの缶を描いた絵は1500ドルもしたが、サイン入りの缶は3個で18ドル、1個6.5ドルで売れた。この展示はポップ・アートと芸術とは何か、ということを一般市民に直接的に問いかけた初めて大きなイベントの1つだった。

The American Supermarket 1964 (Paul Bianchini’s Upper East Side Gallery, NY)
The American Supermarket 1964 (Paul Bianchini’s Upper East Side Gallery, NY)

ファクトリーとコラボレーション


1950 年代に広告のイラストレーターとして活躍したウォーホルは、生産性を高めるためにアシスタントを起用した。

 

コラボレーションは、彼のキャリアを通じて、彼の作業方法の決定的な(そして論争の的となる)側面であり続け、これは特に1960年代に顕著であった。

 

最も重要なコラボレーション・ワークの1つは、ジェラルド・マランガとの作品である。マランは詩人、写真家、映画監督、そしてウォーホルのチーフコラボレーターだった。

 

マランガは、47丁目にあったウォーホルのアルミホイルと銀のペンキが張られたスタジオ「ファクトリー」(後にブロードウェイに移転)で、シルクスクリーン、フィルム、彫刻などの制作に協力した。

 

ほかに、ウォーホルのファクトリーの仲間には、フレディ・ヘルコ、オンディーヌ、ロナルド・タベル、メリー・ウォロノフ、ビリー・ネーム、ブリジット・バーリンなどがいた。

 

ウォーホルのファクトリーでは、アシスタントとはいえ、上下関係はほとんどなかった。ウォーホル自体がアシスタントから積極的にアイデアを得て制作活動をおこなった。そのためアシスタントでありながらコラボレーターだった。

 

1960年代、ウォーホルは、ニコ、ジョー・ダレッサンドロ、イーディ・セジウィック、ヴィヴァ、ウルトラ・バイオレット、ホーリー・ウッドローン、ジャッキー・カーティス、キャンディ・ダーリングといったボヘミアンやカウンター・カルチャーの著名人を多数ファクトリーに招き入れ、かれらを「スーパー・スター」と呼んだ。「スーパー・スター」と呼ばれた人は全員ファクトリーの映画に出演している。

 

彼らは皆、ファクトリー作品に参加し、ウォーホルが亡くなるまで友人であり続けた人もいる。作家のジョン・ジョルノや映画作家のジャック・スミスなど、ニューヨークのアンダーグラウンド・アート/シネマ界の重要人物も、1960年代のウォーホル映画(多くはニュー・アンディ・ウォーホル・ギャリック劇場や55丁目プレイハウスで初公開)に登場し、この時代のウォーホルがさまざまな芸術シーンとつながっていたことが明らかにされている。

 

 

あまり知られていないが、この時代に作家のデヴィッド・ダルトン、写真家のスティーヴン・ショア、芸術家のビベ・ハンセン(ポップミュージシャンのベックの母)など、後に著名となる数人のティーンエイジャーを支援し協力したこともあった。

「ファクトリー」に出入りしていたおもなスーパースター。
「ファクトリー」に出入りしていたおもなスーパースター。

ウォーホル銃撃事件


1968年6月3日、フェミニスト過激派のヴァラリー・ソラナスは、ファクトリーでウォーホルと美術批評家でキュレーターのマリオ・アマヤを銃撃する。

 

銃撃する以前、ソラナスはファクトリーの常連者であったものの、友達は少なく、どちらかといえばファクトリー内で浮いた状態にあった。

 

子ども時代に父親から性的虐待を受けていたソラナスは、男性を憎悪し、またレズビアンとしての自覚を持ち、仲間を求めて田舎からニューヨークへとやってきた。

 

しかしニューヨークでホームレスとなり、売春で暮らすことになる。男嫌いなのに男に媚びる生活に、ますます男性憎悪が増す。1967年には「S.C.U.M(男性根絶協会)宣言」を出版、男性の排除を声高に叫ぶ過激派フェミニスト派として活動を始める。

 

この彼女の強烈なキャラクターに目を付けたウォーホルは、1968年制作映画『I, a Man』に彼女を出演させる。ここで彼女とウォーホルの間で行き違いがある。

 

ウォーホルは、ソラナスをサイコの見世物的なかたちで出演させたわけだが、ソラナスは自分がウォーホルに才能を認められたと勘違いをする。そこから裏切りられたと感じはじめ、ウォーホルへの憎しみが増加していったという。

 

ソラナスは、襲撃の翌日に逮捕される。彼女によれば「ウォーホルは私の人生をコントロールし過ぎた」と話している。

 

ソラナスは最終的に精神病院に3年の強制入院させられることになった。銃撃事件後、ファクトリーは出入りや行動を厳密に制限されるようになり、「ファクトリーの60年代」は幕を閉じることになった。 

 

ウォーホルは事件について次のように話している。

 

「撃たれる前は、自分は そこそこというより 「中途半端」な存在だと思っていました。自分は人生を生きているのではなく、テレビを見ているのではないか、と。映画の中の出来事は非現実的だと言われることがありますが、実は人生の中の出来事こそ非現実的なのです。映画では感情が強くリアルに描かれていますが、実際に自分の身に起こったことは、テレビを見ているようで何も感じないんです。撃たれているときも、それ以降も、私はテレビを見ているようなものだと思います。チャンネルは切り替わるけど、全部テレビ。」

1968年にアンディウォーホルを暗殺しようとしたヴァレリー・ソラナス
1968年にアンディウォーホルを暗殺しようとしたヴァレリー・ソラナス

ビジネス・アートとパーティに明け暮れる70年代


1969年、ウォーホルはイギリスのジャーナリスト、ジョン・ウィルコックとともに『インタビュー』誌を創刊した。

 

1960年代におけるウォーホル作品の成功とスキャンダラス性と比較すると、ウォーホルは、制作よりもビジネスの方向に力を入れはじめたこともあり、1970年代は静かな10年となった。

 

ウォーホルは1971年にホイットニー美術館で回顧展を開催した。

 

ボブ・コラセロによれば、ウォーホルはこの頃、富裕層パトロンの「注文肖像画」の仕事に多大な時間を割いていたという。

 

ウォーホルが手がけたポートレイト作品として有名なのは、イラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィー、国王の妻のファラー・パーレビ女王、国王の娘のアシュラフ・パーレビ、ミック・ジャガー、ライザ・ミネリ、ジョン・レノン、ダイアナ・ロス、ブリジット・バルドーなどがある。

 

最も有名なウォーホルのポートレイト作品は、1973年に制作された中国共産党の毛沢東のポートレイト作品である。

 

また、ジェラルド・マランガとともに1973年にポピュラーカルチャーを題材とする雑誌『インタビュー』誌を創刊、1975年には自伝『アンディ・ウォーホルの哲学』を出版。この本の中でウォーホルは「金稼ぎはアートであり、また労働はアートであり、良いビジネスは最もよいアートだ」と述べている。「アンディ・ウォーホルTV」などのテレビ番組の制作も手掛けはじめた。

 

ウォーホルはパーティ好きで、マックス・カンザス・シティを中心としたニューヨークの様々なナイトクラブで連日のようにパーティ開催していた。

 

ただ、ウォーホル自身は寡黙で内気な性格であり、パーティにいる人々を細かく観察することを目的としていたと思われる。美術批評家のロバート・ヒューズは、そんなウォーホルのことを「ユニオンスクエアの白いモグラ」と評していてる。

1973年当時のウォーホル、撮影:ジャック・ミッチェル
1973年当時のウォーホル、撮影:ジャック・ミッチェル
No. 1 from Mick Jagger 1975
No. 1 from Mick Jagger 1975
雑誌「インタビュー」
雑誌「インタビュー」
1970年代ニューヨーク・シーンのイコンでるウォーホルとディヴァイン。
1970年代ニューヨーク・シーンのイコンでるウォーホルとディヴァイン。

1977年、ウォーホルはアートコレクターのリチャード・ワイズマンから、当時を代表するアスリートたちによる10枚のポートレート「アスリート」を依頼された。

 

1979年、1970年代の有名人や著名人の肖像画を展示したが、「表面的、安直、商業的で、被写体の深みや重要性が感じられない」と批評家から不評を買った。

 

1979年、ウォーホルは長年の友人であるスチュアート・ピヴァーとともにニューヨーク・アカデミー・オブ・アートを設立した。

若手作家やストリート界隈との交流の80年代


ウォーホルは1980年代に再び批評家として、また経済的に成功を収めたが、その理由としては、1980年代のニューヨークアートシーンを先導していた多くの多作な若手アーティストたちとの提携と交友にあった。

 

ジャン=ミシェル・バスキア、ジュリアン・シュナーベル、デヴィッド・サールをはじめとするいわゆる新表現主義者や、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッキといったヨーロッパのトランスアバンギャルドのメンバーたちである。

 

さらに、ウォーホルはストリート・アートグラフィティ界隈の信頼も得ており、グラフィティ・アーティストのファブ・ファイブ・フレディは、キャンベルスープの缶で列車全体をペイントしてウォーホルにオマージュを捧げた。

一方、ウォーホルは単なる「ビジネス・アーティスト」になりつつあるとの批判もあった。

 

また、1980年にマンハッタンのユダヤ博物館で開催された「20世紀のユダヤ人10人の肖像」展は、ユダヤ教やユダヤ人に関心のなかったウォーホルが日記で「売れるぞ」と書いていたこともあり、批評家たちから非難を浴びた。

 

しかし、このころになって、「ウォーホルは1970年代のアメリカ文化の時代精神をとらえた」と、ウォーホルの表層性や商業性を「時代を映す最も輝かしい鏡」と評価する評論家も出てきた。

 

ウォーホルは、ハリウッドの強烈な魅力も理解していた。彼はかつてこう言った。「ロサンゼルスが好きだ。ハリウッドが好きだ。彼らはとても美しい。すべてがプラスチックだが、私はプラスチックが好きだ。私はプラスチックになりたいのです」。

 

また、ウォーホルはときどきファッションのランウェイを歩き、ゾリエージェンシーやのちのフォード・モデルズの代理人として製品の推薦をしていた。

 

1984年のサラエボ冬季オリンピックの前には、デヴィッド・ホックニーやサイ・トゥオンブリーなど15人のアーティストとチームを組み、「アート&スポーツ」コレクションに「スピードスケーター」の版画を寄贈した。「スピードスケーター」は、サラエボ冬季オリンピックの公式ポスターに使用された。

『スピードスケーター」,1983年
『スピードスケーター」,1983年

1985年9月、ウォーホルとバスキアの合同展「Paintings」がトニー・シャフラジ・ギャラリーで開かれたが、評価はよくなかった。

 

 同月、ウォーホルの心配をよそに、レオ・カステリ画廊でシルクスクリーンのシリーズ「Reigning Queens」が発表された。

 

この展示は英国エリザベス2世女王、オランダのベアトリクス女王、スワジランドのNtfombi Twala女王、デンマークのマルグレーテ2世女王、当時の4人の女王の肖像画を描いたものだった。

 

 ウォーホルは『アンディ・ウォーホル日記』の中で、「ヨーロッパだけの作品になるはずだった。ここでは誰も王族に興味がないし、また悪い評判が立つだろう」と書いている。

 

1987年1月、ウォーホルはパラッツォ・デッレ・ステッリーネでの最後の展覧会『最後の晩餐』のオープニングのためにミラノを訪れた。

 

翌月、ウォーホルとジャズミュージシャンのマイルス・デイヴィスは、2月17日にニューヨークのTunnelで行われた佐藤孝信のファッションショーでモデルとして参加した。

死去


ウォーホルは1987年2月22日午前6時32分に、マンハッタンで死去。

 

ニュース記事によれば、ウォーホルはニューヨーク病院で、定期的に胆嚢手術をおこない、良好な経過を送っていたものの、睡眠中に突然の術後不整脈におそわれ亡くなったという。

 

診断と手術の必要性が明らかになる前、元々、ウォーホルは病院や医者が嫌いなこともあって、定期的なドクター・チェックを怠っていたことも原因だといわれる。68年に狙撃されてからずっと健康状態は悪かったともいわれている。

 

しかし、ウォーホルの家族は、病院のケアが不十分だったとして提訴、不整脈は病院側の不適切なケアが原因で引き起こされたものだと主張した。病院側は医療誤診をすぐに認めたため和解。ウォーホルは病院側から慰謝料を受け取った。

 

遺体はピッツバーグのセント・ジョン・バプティスト・カトリック共同墓地の両親の隣に埋葬された。4月1日、ニューヨークのセント・パトリック大聖堂で追悼ミサが行われた。

 

ウォーホルの遺産は6億ドルとされ、またウォーホルが集めた美術品や骨董、家具調度品などはオークションにかけられ、売り上げは2000万ドルに達した。

 

1987年に、アンディ・ウォーホル視覚芸術財団が創設され、ウォーホル関係の著作権ビジネスのほか、ウォーホルの遺志により、将来性のある作家の支援事業などが行われるようになった。

パーソナル


ウォーホルは同性愛者だった。1980年、彼はインタビュアーに、自分はまだ処女であると語った。

 

そのインタビューに同席していた伝記作家のボブ・コラセロは、それはおそらく事実であり、彼がしたわずかなセックスはおそらく「盗撮と自慰の混合-(アンディの)抽象的な言葉を使えば」であると感じた。

 

しかし、ウォーホルの処女性の主張は、1960年に性感染症のヒトパピローマウイルスで入院したことと矛盾するように思える。

 

また、ウォーホルのミューズであるビリー・ボーイを含む彼の恋人たちからは、オーガズムに達するまでセックスをしたと反論されている。

 

「アンディ・ウォーホルでないとき、そして彼と二人きりになったときで彼は性格が違う。ウォーホルでないとき、彼は信じられないほど寛大で、とても親切な人だったんだ。私を誘惑したのは、私が一人で見たアンディ・ウォーホルだった。実際、人前で彼と一緒にいるときは、彼は私の神経を逆なでするようなものの言い方をすることがあった。『君は不愉快だ、耐えられない』と言うだろう」。

 

ビリー・ネームも、ウォーホルが単なる覗き魔であることを否定して、こう言った。「彼はセクシュアリティのエッセンスだった。それはすべてに浸透していた。アンディは、その偉大な芸術的創造力とともに、それを発散していた...それはニューヨークの芸術界全体に喜びをもたらしていたい」

 

「しかし、彼の性格はとても傷つきやすく、真っ白な表を出すことが防御になった。」

 

ウォーホルの恋人には、ジョン・ジョルノ、ビリー・ネーム、チャールズ・リザンビー、ジョン・グールドがいた。12年来の恋人は、1968年に出会ったジェド・ジョンソンで、彼は後にインテリアデザイナーとして名声を得ることになる。

ウォーホルの最後の作品《バービー、ビリーボーイの肖像》は、バービー人形として描かれたビリーボーイの絵であり、ビリーボーイに贈られた。
ウォーホルの最後の作品《バービー、ビリーボーイの肖像》は、バービー人形として描かれたビリーボーイの絵であり、ビリーボーイに贈られた。
ビリー・ボーイとアンディ・ウォーホル
ビリー・ボーイとアンディ・ウォーホル

ウォーホルの同性愛が自身の作品に影響を与え、またアート・ワールドとの関係を形成したことは、このアーティストに関する研究の主要な主題である。

 

ウォーホル自身もインタビューや同時代の人々との対話、出版物(『ポピズム:ウォーホルの1960年代』など)で扱った問題でもあった。

 

ウォーホルはキャリアを通じて、男性のヌードを題材にしたエロティックな写真やドローイングを制作した。彼の最も有名な作品の多く(ライザ・ミネリ、ジュディ・ガーランド、エリザベス・テイラーのポートレートや、『フェラチオ』『マイ・ハスラー』『孤独なカウボーイ』などの映画)は、ゲイの地下文化を引用したり、複雑なセクシャリティや欲求を公然と追求したりしている。

 

さまざまな研究者によって取り上げられているように、彼の作品の多くは、1960年代後半にニュー・アンディ・ウォーホル・ギャリック・シアターや55番街プレイハウスなどのゲイ・ポルノ劇場で初公開されたものである。

 

ウォーホルが初めて画廊に提出した作品は、男性のヌードを描いたホモエロティックなものだったが、あまりにもゲイであることを公言しているとして拒否された。

 

さらに『ポピズム』では、当時有名だったゲイのアーティスト(ただしクローズド・ゲイ)のジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグのように、ウォーホルが社会的に受け入れられなかったことについて、映画監督のエミール・デ・アントニオと話したことを回想している。

 

デアントニオは、ウォーホルが「あまりにもオープンだから、閉鎖的なゲイたちを怒らせてしまう」と説明した。これに対してウォーホルは、「それに対して言えることは何もなかった」と書いている。

 

あまりにも本当のことだった。だから、気にしないことにしたんだ。なぜなら、それらはすべて、とにかく自分が変えたくないこと、自分が変えたいと「思うべき」ことではないと思ったことだったから......。他の人は態度を変えることができても、私は変えることができないのです。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Andy_Warhol、2022年4月30日アクセス