アリス・リデル / Alice Liddell
『不思議の国のアリス』のモデル
概要
生年月日 | 1852年5月4日 |
死没月日 | 1934年11月16日 |
国籍 | イギリス |
関わりのある芸術家 | ルイス・キャロル |
配偶者 | レジナルド・ハーグリーブス |
アリス・プレザンス・リデル(1852年5月4日-1934年11月16日)は、少女時代にルイス・キャロルと知り合り、写真のモデルとなったイギリスの女性。
また、ルイス・キャロルがボート遊びのときに彼女に話した物語の1つは、のちに古典児童小説『不思議の国のアリス』となった。
彼女の名前と『不思議の国のアリス』の主人公の名前は同じであるが、学者たちによれば、物語上のアリスの性格がどの程度まで、実際の彼女の性格を基盤にしていたかどうかについてはわからないという。
アリスは28歳のときに、クリケット選手で地方裁判官の資産家レジナルド・ハーグリーブスと結婚し、3人の子どもをもうけている。
略歴
幼少期
アリス・リデルはオックスフォード大学クライスト・チャーチの教師ヘンリー・ジョージ・リデルと、その妻のロリーナ・ハンナ・リデルのあいだにうまれた。父ヘンリーは『ギリシア語=英語辞典』の共著者としても知られている。
アリスは10人兄妹の第4子で、長男ハリー(1847年生まれ)、次男アーサー(1850−53年)、長女ロリーナ(1849年)の次に生まれた次女だった。兄妹のなかでは13歳年の離れた弟のフレデリック(1865年生まれ)ともっとも親親しかったという。フレデリックは弁護士で上級公務員だった。
アリスが生まれたとき、父ヘンリー・リデルはウェストミンスター・スクールの学長だったが、1856年アリスが3歳のときにオックスフォード大学クライスト・チャーチへ移り、一家は学寮で暮らすようになった。
アリスは音楽についてはジョン・ステイナーとチャールズ・ヒューバート・パリー、絵画についてはジョン・ラスキンから教育をうけ、芸術面で才能をしめした。
リデル家のこどもたちは両親にまじって、食後の音楽会や室内ゲームに参加したり、オックスフォードのさまざまな学者や芸術家とまじわった。このころ、ドジソンは写真撮影の趣味をはじめたころで、1856年4月25日、ドジソンが大聖堂を写真撮影しているときにリデル一家と出会い、それからリデル一家と親密な関係を築いていった。
アリスは姉ロリーナより3歳年下で、妹エディスとは2歳はなれていた。この3人姉妹はいつも一緒にいることがおおかった。リデル一家は休日になると、定期的に北ウェールズのランディドノー西岸にある、のちにゴガルス修道院ホテルとなる別荘『THE PENMORFA』で過ごしたという。
結婚と出産
1872年、オックスフォード大学クライストチャーチ在学中の4年間に、ヴィクトリア女王の王子レオポルドとしたしくなり、恋噂になったこともあった。しかし、階級の違いもあって別れることになる。
1880年、アリスは28歳のときに地主の息子レジナルド・ジャーヴィス・ハーグリーヴスとウェストミンスター寺院で結婚式をあげる。レジナルドは父の職であった地方の治安判事を受け継いだ富裕層で、またクリケットの選手としても有名だった。
結婚後、2人はハンプシャーにあるハーグリーヴズの屋敷カフネルズに移り住む。そこでアリスはレジナルドとのあいだに3人の息子アラン、レックス(レオポルド)、キャリルをもうけている。なお、アランとレックスは第一次世界大戦で戦死している。
キャリルだけが生き延び、のちに結婚して1人の娘をもうけている。なお、キャリルという名前は、ドジソンのペンネームである「ルイス・キャロル」から由来しているといわれている。
なお、ヴィクトリア皇子のレオポルドに長女が生まれたとき、長女にアリスという名前を付けているが、これはアリス・リデルから由来とされている。また、1883年1月に誕生したアリスの次男の洗礼の教父をレオポルドが務め、自分の洗礼名「レオポルド」を次男に与えている。こうした交友関係から、レオポルドがアリスとの恋愛関係は本当だったと見られている。
しかし、レオポルド皇子の娘アリスの名前の由来は、亡くなったレオポルド皇子の姉アリスとも言われており、その真相はわかっていない。また、レオポルドが恋心を抱いていたのは、実はアリスの妹イーディスだったとする説もあるという。というのも、1876年6月26日に22歳のとき、婚約者のオーブリー・ハーコートと結婚する直前に、はしかでイーディスが亡くなるが、30日におこわれた葬儀にレオポルド皇子は参列し、ひつぎの担ぎ手を務めている。
結婚後、アリスはおもに上流階級のホステス業界で有名になり、エメリー・ダウンのウーマンズ・インスティチュートの初代社長をつとめている。彼女は自分自身を「レディ・ハーグリーブスと自称していた。
晩年
1926年に夫が亡くなると、生活に困窮しはじめ、1928年にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の草稿本である『地下の国のアリスの冒険』の原稿を売却する。サザビーズのオークションに出品したところ、売上予想の4倍の15,400ポンドで落札された。
原稿は実業家のエルドリッジ・R・ジョンソンが所有し、1932年アメリカのコロンビア大学で開催されたルイス・キャロルの生誕百年記念式典で、その原稿が展示された。当時80歳だったアリスは生誕百年記念式典へ招待され、そのときに作家のピーター・ルエリン・デイビーズと出会ったり、また大学から名誉博士号を授与されている。
所有者のエルドリッジ・R・ジョンソンが死去すると、『地下の国のアリスの冒険』の原稿は、アメリカの読書愛好家たちの共同体に買い取り、「アメリカが参戦する前にヒトラーの侵略に直面したイギリスの勇気を讃える」という名目のもと、イギリス国へ返却された。現在は『地下の国のアリスの冒険』の原稿は、大英図書館に保管されている。
アリスは人生の大半をニュー・フォレストにあるリンドハーストで過ごした。1934年になくなると、ゴルダーズ・グリーンで火葬され、リンドハーストの聖ミシェル&オール・エンジェル教会墓地に埋葬された。
墓碑には「レジナルド・ハーグリーブス夫人/ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のアリス」と付けられている。
『不思議の国のアリス』の起源
『地下の国のアリス』(Alice's Adventures under Ground)は、ルイス・キャロルが1864年にアリス・リデルに贈った手書きの本。『不思議の国のアリス』(1865年)の原型となった物語であり、同作品が有名になったのちの1886年には複製版も出版された。キャロル自筆の原本は現在大英博物館に収蔵されている。
1862年7月4日、オックスフォードのフォーリー・ブリッジからゴッドストーへボートでピクニックに出かけたルイス・キャロルとアリス・リデルら三姉妹に語った物語が『地下の国のアリス』である。アリスは当時10歳だった。
アリスはドジソンにアリスと姉妹たちに面白いお話をしてくれるよう頼み、ロビンソン・ダックワース司祭がボートを漕ぎ、ドジソンは彼女たちにウサギの穴に落ちた女の子アリスの冒険物語を即興で作り聞かせ楽しませた。
その後、アリスはドジソンに、ピクニックのときに姉妹たちに語った物語と少し異なる話を作って欲しいと頼んだ。ドジソンは仕事が忙しかったため、その後、なかなか物語の創作に手をつけることができなかったが、2年後の1864年11月にアリスにプレゼントする。これが有名な『不思議の国のアリス』の原本となる『地下の国のアリス』だった。
また、執筆中にドジソンは『地下の国のアリス』を可能な限り商業用に書き直すよう工夫している。1863年の春に作家で友人のジョージ・マクドナルドに『地下の国のアリス』の原稿を送り、感想を求めている。マクドナルドの子どもたちは、『地下の国のアリス』を読み、大変面白がったので、ドジソンの本を出版してくれる出版を探した。
その後、イラストレーターのジョン・テニエルが挿絵を描き、タイトルを『不思議の国のアリス』と変更し、1865年にルイス・キャロルのPNで出版されることになった。1871年には続編の『鏡の国のアリス』が出版された。また、1886年にはドジソンがアリスにプレゼントした『地下の国のアリス』のオリジナル原稿のコピー
版が出版された。
ルイス・キャロルとアリスの関係
リデルとドジソンの関係は多数論争の的となっている。ドジソンは1855年にリデル一家と出会った。
ドジソンは最初、長男のハリーと親しくなり、のちにハリーと長女のロリーナとともに、オックスフォード周辺の自然区域で何度かボートに乗ってピクニックを楽しんでいる。
ハーリーが学校へ通い出すようになると、かわりにアリスと妹のエディスがピクニックに参加するようになる。ドジソンは暇つぶしに子どもたちにファンタジックな物語の話を聞かせて楽しませていたという。
また、ドジソンは写真の趣味があり、よく、子どもたちを主題にした写真撮影をしていたが、アリスは明らかに彼の好みの被写体の1人であると論議されてきた。
しかし、この写真だけアリスばかりが好みの対象であったとは断定できない。なお、1858年4月18日から1862年5月8日までのドジソンの日記は欠落しているため、ドジソンの心情はわからない。
1863年6月にリデル一家とドジソンの関係は突然、破綻する事になった。リデル一家はその理由は公然に一切話しておらず、また、破綻した頃と関わりにある1863年6月27から29日の日記は欠落していたため、破綻の真相はわかっていない。
伝記作家のモートン・N・コーエンによれば、ドジソンは11歳のアリス・リデルに求婚し、それがリデル一家との関係の破綻の原因と推測している。アリス・リデルの伝記作家、アン・クラークは、アリスの子孫たちはドジソンが彼女と結婚したがっていた印象があったと書いている。しかし、アリスの両親は彼女にとってもっと良い縁組を探していたという。