アルベルト・ジャコメッティ / Alberto Giacometti
20世紀モダニズム彫刻の代表、実存主義の不安
アルベルト・ジャコメッティは、20世紀を代表する彫刻家として知られています。特に戦後のフランスの彫刻界において最も高い評価を得ています。本記事では、アルベルト・ジャコメッティの生涯や作品を解説し、彼の芸術様式を紹介します。彼の作品からは、人間の状態についての哲学的な疑問、実存論的、現象学的な議論が抽出されます。彼の作品は、極力余分なものをすべてそぎ落とし、本質に迫ろうとする、独特な人間像を模索するものです。さあ、本記事を読み進めて、アルベルト・ジャコメッティの芸術世界に触れてみましょう。
目次
概要
生年月日 | 1901年10月10日 |
死没月日 | 1966年1月11日 |
国籍 | スイス |
表現媒体 | 彫刻、絵画、ドローイング |
ムーブメント | シュルレアリスム、表現主義、キュビスム、フォーマリズム |
配偶者 | アネット・アーム |
アルベルト・ジャコメッティ(1901年10月10日-1966年1月11日)はスイスの彫刻家、画家、素描画家、版画家。戦後のフランスの彫刻界において最も高い評価を得る。父は後期印象派の作家のジョヴァンニ・ジャコメッティ。父の影響のもと幼少期から芸術に関心を持つ。
1922年からおもにパリに住み、仕事をしていたが、定期的に故郷のボルゴノヴォを訪れ、家族に会いにいったり、作品を制作していた。
ジャコメッティは20世紀を代表する彫刻家の一人である。彼の作品は、特にキュビスムやシュルレアリスムなどの芸術様式の影響を受けている。人間の状態についての哲学的な疑問、実存論的、現象学的な議論が彼の作品に重要な役割を果たした。
初期はシュルレアリスムの作家だったが、1935年ころから離れて独特の人間像を模索し始める。極力、余分なものをすべてそぎ落とし、本質に迫ろうとするその彫刻は、逆に周囲の空間をすべて支配してしまう不思議な存在感を放つ。
ジャコメッティはシュルレアリスム運動のキーパーソンであるが、彼の作品を簡単にシュルレアリスムと分類することはできない。ある人は表現主義と呼び、ある人はフォーマリズムと呼ぶ。
20世紀のモダニズムと実存主義における空虚で意味を喪失したモダンライフを反映していると批評もされた。
ジャコメッティは定期刊行物や展覧会のカタログに文章を書き、ノートや日記に自分の考えや記憶を記録していた。
彼の自己批判的な性格は、自分の作品や自分の芸術的なアイデアを正しく表現する能力に大きな疑問を抱かせたが、それは大きな創作の原動力となった。
1938年から1944年までの間、ジャコメッティの彫刻の高さは最大で7センチだった。その小ささは芸術家とモデルとの実際の距離を反映していたという。
この文脈の中で、彼は自己批判的に次のように述べている。「しかし、自分が見たものを記憶から創造したいと思っていた私の恐怖のために、彫刻はどんどん小さくなっていった」。
第二次世界大戦後、ジャコメッティは彼の最も有名な彫刻を制作した。彼の非常に高く細い人形である。
これらの彫刻は、想像上のものでありながら現実のものであり、有形のものでありながらアクセスできない空間の間で、彼の個人的な鑑賞体験の対象であるという。
ジャコメッティの全作品の中で、絵画はごく一部を占めるにすぎない。しかし、1957年以降は、彫刻と同様に具象的な絵画も制作されるようになった。晩年の彼のほとんど単色の絵画は、近代の他の芸術様式には言及していない。
実存主義哲学家のジャン・ポール・サルトルはジャコメッティの作品に注目し、早い時期に論文を書いた。
重要ポイント
- 近代哲学やシュルレアリムから影響を受けている
- 余計なものをとにかく削ぎ落とし本質に迫る
- 近代と実存主義における空虚さを表現
作品解説
略歴
シュルレアリスム時代
ジャコメッティは、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォ(現在グラウビュンデン州マローヤ地区のスタンパの一部)に生まれ、近郊のスタンパの町で育った。スイスの異端審問を逃れたプロテスタント難民の家系だったという。
父はジョヴァンニ・ジャコメッティで後期印象派の画家として知られており、そんな家庭環境の中ジャコメッティは幼い頃から芸術に親しんでいた。兄弟のデェイゴとブルーノも美術家として知られている。従兄弟のザッカリア・ジャコメッティはのちにチューリヒ大学の憲法学の教授で学長となるが、1905年に12歳のときに孤児になったため、ジャコメッティ一家とともに育った。
ジャコメッティは、高等学校卒業後、1919年にジュネーヴ美術学校に入学するが、入学後数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校のモーリス・サルキソフの下で彫刻を学ぶ。
1920年にヴェネツィア、1921年にはローマに滞在した後、1922年にパリへ移住し、ロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデルのもとで彫刻を学ぶ。この頃、ジャコメッティはキュビスムやシュルレアリスムの手法を導入しはじめ、次第にシュルレアリスム彫刻家として知られていくようになった。パリではピカソ、エルンスト、ミロ、バルテュスらと交友があった。
最初の個展は、1927年にスイスのGalerie Aktuaryusで開かれている。鳥かご、キネティック、抽象、多色といった強烈な実験彫刻を繰り返しており、当時はまだ定まったスタイルがなかった。1930年から35年にシュルレアリスム運動に参加する。
小さく、小さく、破壊、細く、長く、
1935年頃からシュルレアリスムから離れて、1936年から1940年までのあいだ、ジャコメッティは人間の頭部の彫刻制作に没頭し続けた。
彫刻は余計な部分が削られて、どんどん小さくなっていった。最後には破壊してしまう作品も多かった。なお1935年から1947年の間、ジャコメッティは一度も個展をしていない。
モデルに妹や芸術家のイザベル・ローズソーン(ベーコンのモデルとしてでも有名)を選ぶことを好んだ。ジャコメッティの細長い彫像は、彼女の細長い手足を強調したように制作されている。
1946年にアネット・アームと結婚した後、今度はジャコメッティの彫刻はどんどん大きくなっていった。われわれがよく見かける、大きく細長い彫刻は1947年から始まる。ジャコメッティは自身の作品について、女性を見たときに感じる感覚を表現していると説明している。
何度も再加工した結果として、ジャコメッティの彫像は孤立してひどく衰弱しているように見える。またジャコメッティがほかに好んだモデルでは、彼の弟であるディエゴ・ジャコメッティでと弟のブルーノ・ジャコメッティがいる。
ミニマルな生活
1958年ジャコメッティは、ニューヨークに建設中のチェイス・マンハッタン・バンクの記念碑彫刻の制作を依頼された。
ジャコメッティは、昔から公共空間での彫刻制作への野心をずっと抱いていたもの、一度もニューヨークに足を踏み入れてことはなく、急速に進展する大都市での生活について何一つ知っていたことはなかったという。ジャコメッティの伝記作家ジェームス・ロードによると、ジャコメッティは生涯において摩天楼の超高層ビルを見たこともなかったという。
ジャコメッティの終生の住居兼アトリエがあったイポリット・マンドロン通りは、当時のパリの中でも貧しい界隈であり、小さな工場や材木置き場が立ち並んでいるところだった。ジャコメッティは、裕福になってからも、住居とアトリエを変えることはなく、小さな村の貧しいアトリエを使っていたといわれる。
この理由として、父ジョバンニの影響が大きく、ジョバンニはスイスにの有名な画家の一人だったが、青年時代の数年間をパリで過ごした以外は、終生スイスの山間の小さな村スタンパを離れることなく、制作してたようである。
ジャコメッティは生前、次のような言葉を残している。
「小さな空間さえあれば。非常に大きな作品を作る時でもそうだ。大きな作品を作るために大きなアトリエがいるという人がいるが、それは間違っている。大きな作品のために必要なものは小さな作品のために必要なものと全く同じだ」(矢内原伊作『ジャコメッティとの会話』彩古書房)
1960年にジャコメッティのも記念碑彫刻は、彼の最も巨大な作品で4人の女性像の彫刻Grande femme debout I through IV (1960)」に決定したものの、仕事はうまくいかなった。彫刻と設置場所の関係においてジャコメッティに不満があり、結局このプロジェクトは破綻した。
晩年
1962年に、ジャコメッティはヴィネティア・ヴィエンナーレの彫刻部門でグランプリを受賞したのをきっかけに世界中に名が知れわたるようになった。
有名になってから作品の需要が増えてからも、ジャコメッティは彫刻を再加工し続け、また破壊したりしていた。
ジャコメッティによって制作された版画はよく見落とされるが、晩年には絵画、版画など平面芸術への回帰もみられる。版画集『終わりなきパリ』は1958年から1965年にかけて制作した石版画150点を収録し、ジャコメッティ自身によるテキストを付したもので、晩年の代表作である。
1966年にジャコメッティは、スイスのチューリヒで心臓疾患にかかり慢性閉塞肺疾患で死去。
美術分析
ジャコメッティの彫刻技法について、メトロポリタン美術館によれば、1949年に制作された《歩く三人の男(Ⅱ)》の荒々しく、侵食され、重く加工された表面は、ジャコメッティの技術の特徴を生かした代表的な作品である。芯まで削ぎ落とされたこれらの人物は、葉を落とした冬の孤独な木を想起させる。
このスタイルの中で、ジャコメッティは、「歩く男」「立っている裸の女性」「胸像」という、彼が没頭した3つの主題から逸脱することはほとんどなく、あるいは3つすべてのさまざまな要素を融合していた。
ピエール・マティスへの手紙の中で、ジャコメッティは「人物は決してコンパクトな塊ではなく、透明な構造物のようなものであった」と書いている。また、手紙でジャコメッティは、若い頃の写実主義的で古典的な胸像を懐かしみながら振り返ったこと、そして、彼の特徴的なスタイルを生み出した実存的な危機の話を書いている。
「私は、人物を使った作品を作りたいという願望を再発見した。そのためには、頭の構造や人物全体の構造を理解するのに十分な程度の、自然の中から 1 つか 2 つの習作を作らなければならなかった(すぐに私は考えた。この研究には 2 週間かかると思っていましたが、そうすれば私は自分の構図を実現することができます。頭部は、私にとって全く未知の、寸法のない物体となった。」
ジャコメッティは思春期初期に卓越した技術でリアリズムの彫像制作を成し遂げていたため、大人になってから人物像に再アプローチすること難しさについて、技術的な欠陥というよりも、意味を求める実存的な葛藤の表れだとして一般的に理解されています。
学者のウィリアム・バレットは、『非合理的な人間』(Irrational Man, A Study in Existential Philosophy, 1962)の中で、ジャコメッティの人物像の減衰した形は、20世紀のモダニズムと実存主義の見解を反映していると主張している。「現代生活がますます空虚で意味を持たないものになっている。今日のすべての彫刻は、過去の彫刻と同様に、いつかバラバラになって終わるだろう......だから、自分の作品をその小さな凹みの中で注意深く作り、物質のすべての粒子に生命をチャージすることが重要なのだ」
市場
「指差す男」は1947年にアルベルト・ジャコメッティによって制作されたブロンズ像。2015年5月11日にクリスティーズで史上最高額の1億4100万ドルで売買されたことで話題になった。
ジャコメッティは「指差す男」を6体制作しており、ニューヨーク近代美術館やテイト・ギャラリー1体ずつ、ほか2体も美術館に所蔵されている。1体は財団のコレクションで、最後の1体は個人蔵となっている。2015年にクリスティーズに出品されたのは個人蔵のもので、45年間所持されていたものだった。
クリスティーズは「今回、ジャコメッティの非常に希少なマスターピースで、彼のイコン的作品が出品される。」とアナウンスを行なった。