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【美術解説】アドルフ・ヴェルフリ「絵画、テキスト、音楽に彩られた聖アドルフ王国」

アドルフ・ヴェルフリ / Adolf Wölfli

初期アウトサイダー・アートの巨匠


スイス出身の画家、アドルフ・ヴェルフリは、アール・ブリュットの時代における前衛的なアウトサイダー・アートの巨匠として輝きました。美術には興味を示さなかった彼が精神病を経て絵画の世界に目覚め、その独自の才能を発揮するようになったのは驚くべきことでした。

概要


生年月日 1864年2月29日
死没月日 1930年11月6日
国籍 スイス
ムーブメント アウトサイダー・アート

アドルフ・ヴェルフリ(1864年2月29日-1930年11月6日)はスイスの画家。アール・ブリュットという言葉が使われ前のアウトサイダー・アートの巨匠の1人として知られている。

 

もともと美術に関心がなかったヴェルフリが精神病を発症した後、独自に絵画に目覚め、その才能を発揮させるようになりました。

 

ヴェルフリはその生涯に膨大な数の作品を制作し、多くの場合、必要最低限の材料しか使わず、鉛筆や紙などの必需品を手に入れるために、診療所を訪れた人々と小作品を交換しました。

 

ヴェルフリは自ら絵を描き始め、その行為によって心を落ち着かせることができたと言われています。

 

ヴェルフリの卓越した作品として知られるのは、半自伝的な叙事詩シリーズ『揺りかごから墓場まで』。総ページ数は25,000ページ以上、1600点のイラスト、1,500のコラージュで、全体が45巻に構成されています。ヴェルフリ自身が“騎士アドルフ”や“皇帝アドルフ”となり、さらには“聖アドルフ2世”に変身して活躍するというものです。

アドルフ・ヴェルフェリ『島の全景』,1911年
アドルフ・ヴェルフェリ『島の全景』,1911年
アドルフ・ヴェルフェリ『イレン・アンシュタルト・バンド・ヘイン』,1910年
アドルフ・ヴェルフェリ『イレン・アンシュタルト・バンド・ヘイン』,1910年

略歴


幼少期


アドルフ・ヴェルフリは、7人兄弟の末っ子としてスイスのベルンで生まれました。父ヤコブは石切り工でしたが、アルコール中毒で犯罪を繰り返し、大半を刑務所で過ごしていました。ヴェルフリは幼少時にこの父親から肉体的、また性的虐待を受けていたといいます。

 

母親のアンナはクリーニングの仕事をして、1人で家族を支えていました。ヴェルフリが5歳になるまでに父ヤコブは完全に家族を見捨て、数年後に死去。母親もまた病に陥り、彼が8歳の時に死去しました。

 

10歳の誕生日前に孤児になり、共同体の監視下におかれ、悲惨な養家をいくつも渡り歩いて暮らしました。彼の愛した娘との交際をその軽蔑に満ちた父親に禁じられたヴェルフリは、1883年、一時的に移動農場労働者の生活をやめて歩兵隊に加わりました。

 

1890年には、二人の幼い少女に性的ないたずらをしようとしたため禁固2年の判決を受けました。また3歳半の女の子にいたずらをしたとされる3回目の事件が起こった後の1895年、ベルンのヴァルダウ精神病院に収容され、1930年に死ぬまでそこに留まった。病院内ではかなり暴れて孤立し、特に精神病に苦しんで激しい幻覚におそわれていました。

作品制作


1910年からは計画的に著述とドローイングを制作するため、ヴェルフリは個室に一人で保護されている状態を望み、その部屋も彼自身の作品で飾り立ててしまった。

 

ヴァルダウ病院に入院した4年後,ヴェルフリは絵をかき始めました。現在残されている最初期の作品は1904年にさかのぼりますが、落ち着かない感じの、対称性をもって新聞紙に描かれた鉛筆のドローイングです。イメージや言葉、音楽の表記法をおり混ぜた初期の作品は、後の彼の作品の主要なモチーフ、また絵画制作上の工夫を予想させるものです。

 

ヴァルダウ精神病院の医師であるウォルター・モーガンタラー博士が赴任した1908年に、ヴェルフリは壮大な自伝を書き上げる計画に着手し、残り22年の人生をそれに費やすこととなります。

 

1921年には、モーガンタラー博士がアドルフ・ヴェルフリに関する論文『芸術家としての精神病患者』を発表し、美術業界に衝撃を与えました。

 

モーガンタラーの著書には、もともと芸術に関心を持っていなかったが精神病を発症した後に独自に絵画に目覚め、その才能を開花させるようになった患者の作品についての詳細が記されていました。

 

この点で、ヴェルフリは象徴主義者であり、アウトサイダー・アート、アール・ブリュット、そしてその擁護者であるジャン・デュビュッフェの発展と受容に影響を与えました。

 

毎週月曜日の朝、ヴェルフリは病院から新しい鉛筆と印刷されていない大きな白い新聞紙2枚を受け取りました。鉛筆は2日で使い切ってしまうため、彼は他の誰かから鉛筆の残りを譲り受けたりして描いていました。

 

たかだか5~7mmほどの短い鉛筆でも、ヴェルフリは器用に手のひらに挟み込んで、芯が尽きるまで注意深く使い込んでいました。支給される紙が尽きると、院内の他の患者や警備員から梱包紙を集めて、それに絵を描くことがあったそうです。

 

クリスマスに贈られる色鉛筆は、彼にとって最大の贈り物であり、鉛筆が2~3週間も持続すると、彼は喜んでいたそうです。

 

作品は紙の端から端まで細かく描かれていました。ヴェルフリの 「空間恐怖症 」の現れで、すべての空白は2つの小さな穴で埋められていました。ヴェルフリはこれらの穴の周りの形を 「鳥 」と呼んでいました。

 

ヴェルフリの絵画が特異なのは、音符や楽譜などの音楽的な要素が多数取り入れられていたことです。最初は単なる装飾音符や楽譜を絵に描いていましたが、徐々に彼は紙上で本格的に作曲を始めました

 

ポルカや行進曲などの楽曲を作り、病院では、自身が作曲した曲に合わせてラッパで演奏しながら絵を描くこともあったそうです。

 

詩や音楽作品、そして3,000点のイラストがあちこちにはさみ込まれているこの空想に満ちた自伝は、25,000ページ以上になります。ヴェルフリが手で綴じ彼の部屋に積み上げられた45巻の自伝は、最後には6フィート以上の高さになりました。

 

この作品はヴェルフリ自身の人生と幻想的な冒険譚が融合されたもので、ヴェルフリ自身が“騎士アドルフ”や“皇帝アドルフ”となり、さらには“聖アドルフ2世”に変身して活躍するというものです。テキストとイラストレーションが中心ですが、ときには音楽、言葉、色などが万華鏡的に要素となって組み合わされた総合芸術に発展しました。

 

この物語の魅力的なイラストは、テクストと彼特有の表現のモチーフが深く結び合わされた、迷宮のように複雑な産物であり、曼荼羅のような構図をもっています。

 

死の数日前、ヴェルフリはこの自伝の最後の部分、彼が「葬送行進曲」と題するおよそ3,000の歌からなるおおげさなフィナーレを完成することができないといって嘆いていました。ヴェルフリは1930年にベルンのヴァルダウで亡くなりました。

 

1972年、ヴェルフリの作品はドクメンタ5に出品され、以来ヨーロッパやアメリカ合衆国の様々なところで展示された。彼の死後45年経った1975年、ヴェルフリがつくりあげた莫大な美術作品、自伝とそのイラスト、また800枚ほどのばらばらの紙に描かれたドローイングは、ヴァルダウ精神病院からベルンの美術館に移されました。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_W%C3%B6lfli、2024年1月5日アクセス