エルンスト・フックス / Ernst Fuchs
ウィーン幻想派の創始者
概要
生年月日 | 1930年2月13日 |
死没月日 | 2015年11月9日 |
国籍 | オーストリア |
表現形式 | 絵画、版画、彫刻、建築 |
ムーブメント | ウィーン幻想派 |
関連サイト | ・WikiArt |
エルンスト・フックス(1930年2月13日-2015年11月9日)は、オーストリアの画家、製図家、版画家、彫刻家、建築家、舞台美術家、作曲家、詩人、歌手。
ウィーン幻想派の創始者であり代表的な作家として評価されている。当時の戦後欧米の前衛美術と異なるのは、彼らは古典巨匠の技法に重点を起き、幻想的で非現実的な写実絵画を描いたことである。また、近代絵画を積極的に捨て去った宗教や終末論的なものを主題としていた。
聖アンナ美術学校でフレーリッヒに、ウィーン美術学校でギュテルスローに師事。旧約聖書や神話を題材に幻想的レアリスムを生み出した。日本では昭和アヴァンギャルドムーブメントで、青木画廊に紹介され知られるようになった。
1972年、フックスはヒュッテュルドルフにある廃墟となったオットー・ワーグナー邸を購入して改修し、1988年にエルンスト・フックス美術館として開館。2015年85歳で死去。
略歴
ユダヤ人だったフックスは第二次世界中、強制収容所に送還されるのを逃れるため12歳のときに、母親から強制的にローマ・カトリックに改宗させられる。
1943年にエミー・スタインボックから彫刻を学び、1944年に聖アンナ絵画学校に入学してフレーリッヒ教授に師事する。1945年にウィーン美術大学に入学して、ロビン・C・アンダーソン教授に師事するが、のちにアルベルト・パリ・フォン・ギュテルスローのクラスに移る。
同じオーストリアの画家グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの芸術に影響を受け、その後、マックス・ペヒシュタイン、ハインリッヒ・カンペンドンク、エドヴァルド・ムンク、ヘンリー・ムーア、パブロ・ピカソの影響を受けた。
大学時代、アーク・ブラウアー、ルドルフ・ハウズナー、フリッツ・ヤンシュカ、ヴォルフガング・ハッター、アントン・レームデンらと出会い、のちにウィーン幻想派として知られる芸術グループの原型を作る。
1950年から1961年の間、フックスはパリに住んでいたが、アメリカとイスラエルへ何度か旅をしている。当時の彼のお気に入りの本は、マイスター・エックハートの説教書だった。また、錬金術師の象徴主義を研究し、ユングの『心理学と錬金術』を精読した。
この頃フックスはマニエリスムに関心を持ち、特にジャック・カロー、ヤン・ファン・エイク、ジャン・フーケに大きな影響を受けている。
1957年、シオン山の休眠修道院に入り、記念碑的な『最後の晩餐』の制作を始める。『モーゼ』や『燃えるブッシュ』などの宗教的主題の小品の制作に力を注ぎ、ウィーンのヘッツェンドルフにあるローゼンクランツキルヒのために羊皮紙の祭壇画『聖なるロザリオの神秘』(1958-61年)のために描いた3作品のときに最高潮に達した。
1958年に、ウィーン幻想派の若手画家を支援するために、ウィーンにギャラリ・フックス=フィスチョフを設立する。また、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー、アルヌルフ・ライナーとともにピントラリウムを設立。
1959年にウィーンのベルヴェデーレで開催された最初の合同展示会、また、その後すぐに海外の他の展示会が開催され、ウィーン幻想派は国際的に知られるようになった。
1961年にウィーンに戻ったフックスは、「verschollener Stil」(スタイルの隠れた素顔)というビジョンを掲げる。その理論は、彼のインスピレーションに満ちた壮大な本「Architectura Caelestis: Die Bilder des verschollen Stils」(ザルツブルク、1966年)で説明されている。
1972年、ヒュッテデュッセルドルフにある廃墟となったオットー・ワーグナー邸を購入してリノベーションし、1988年にエルンスト・フックス美術館を開館する。
また、1970年から、美術館の入り口にある「エステル女王」(高さ2.63m、1972年)や、スペインのカタルーニャ州フィゲレスにあるダリ美術館の入り口にあるキャデラックのラジエーターキャップに取り付けられた作品など、数々の彫刻プロジェクトにも着手した。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Fuchs_(artist)、2021年2月19日アクセス
・https://de.wikipedia.org/wiki/Wiener_Schule_des_Phantastischen_Realismus、2021年2月19日アクセス