アメリカ美術 / American art
アメリカ人が制作、またはアメリカで制作された視覚美術
概要
アメリカ美術は、アメリカ国内またはアメリカ人によって制作された視覚芸術。アメリカン・アートともいう。アメリカには植民地以前からネイティブ・アメリカ人の伝統芸術は多数存在し、またスペイン植民地時代にはスペイン風の美術様式の建築物が多数存在した。
東海岸の初期の植民地時代の芸術は、当初はヨーロッパ出身の芸術家頼みで、アメリカ人の芸術家はほとんどいなかった。当時の代表的な芸術家はイギリス出身のジョン・ホワイトである。18世紀後半から19世紀初頭には、芸術家はおもにイギリス絵画風に肖像画や風景画を描いていた。
18世紀後半になると、ベンジャミン・ウェストとジョン・シングルトン・コプリーの2人のアメリカ人画家がロンドンの美術界で成功する。この頃になるとアメリカ本土で制作を行うアメリカ人画家のスキルはかなり熟練したものになった。
19世紀になると、芸術家を養成するためのインフラストラクチャーがアメリカで多数設立し始める。1820年からハドソン・リバー学校はロマン主義風景画を制作する。彼らはハドソン渓谷やキャッツキル山地などアメリカの自然風景を描いて、ハドソン・リバー派という新しいムーブメントを起こした。また、アメリカ独立革命は、特に歴史絵画に大きな需要を産み出した。
1913年にニューヨークで開催されたアーモリー・ショーでヨーロッパの近代美術がアメリカで紹介された。
第二次世界大戦後、ニューヨークはパリに変わってアートの中心地になった。それ以来、21世紀の現在にいたるまで、アメリカで発生したムーブメントは、近代美術とポストモダン芸術の歴史を形作った。今日のアメリカの芸術スタイルはいまだ世界のムーブメントに影響力を持っている。
歴史
アーモリーショーの衝撃
アーモリー・ショーはアメリカ美術史において重要な出来事である。これまでのアメリカ美術といえば具象的なリアリズム絵画であったが、この展覧会でフォーヴィスム、キュビスム、未来派などのヨーロッパの前衛的な芸術スタイルが初めて紹介され、以後のアメリカ現代美術の生成に多大な影響を与えた。
また、アーモリー・ショーから美術展覧会や美術市場の拡大が本格的に始まり、一般庶民に対する美術知識の浸透が起こりはじめ、現代美術の顧客を拡大させた。(続きを読む)
ニューヨーク・ダダ
ニューヨーク・ダダとは、ニューヨークにて、1910年代半ばに起こったダダのことをいう。
1915年に第一次世界大戦の戦禍を避けてアメリカへ移住していたマルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアは、ニューヨークでアメリカ人画家のマン・レイと出会う。そして1916年、彼ら3人はアメリカにおける反芸術運動の中心メンバーになった。
彼らの活動となった場所は写真家のアルフレッド・スティグリッツのギャラリー291だった。スティグリッツが私費で運営していた小さなギャラリーでは、ヨーロッパの先鋭的な美術やアメリカの新しい美術家を積極的に紹介しており、そこにデュシャンやピカビアなどが集まっていた。(続きを読む)
連邦美術計画と亡命芸術家たち
1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。
WPA(雇用促進局)は失業した芸術家たちを救済するため、公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。
「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。(続きを読む)