【美術解説】ヨーゼフ・ボイス「拡張された芸術概念「社会彫刻」」

ヨーゼフ・ボイス / Joseph Beuys

拡張された芸術概念「社会彫刻」


ドクメンタ7(1982年)で開始した『7000本の樫の木』プロジェクト。ドイツ・カッセルにて
ドクメンタ7(1982年)で開始した『7000本の樫の木』プロジェクト。ドイツ・カッセルにて

概要


生年月日 1921年5月12日
死没月日 1986年1月23日
国籍 ドイツ
表現形式 彫刻、パフォーマンス、インスタレーション、著述
ムーブメント フルクサス、ハプニング
   

ヨーゼフ・ボイス(1921年5月12日-1986年1月23日)はドイツの現代美術家。フルクサス、ハプニング運動でおもに彫刻、インスタレーション、グラフィック芸術を制作。美術理論や教育理論も多数執筆。

 

社会や政治の形成に芸術は積極的に参加していく必要があるというのがボイスのおおよその主張である。 総合芸術として「社会彫刻」「拡張された芸術概念」という独自の芸術概念を打ち立て、人間ひとりひとりが参与することでより良い社会をつくりあげると説いた。彼の広範な研究は、ヒューマニズム、社会哲学、人文科学の概念に基いている。

 

ボイスの活動は、視覚美術だけでなく、政治、環境、社会、経済、長期的文化傾向など非常に幅広いテーマを関連付けさせながら、情熱的に辛辣に公開討論していたのが特徴である。ボイスの広範囲な表現活動はおもに4つの領域に分類することができる。伝統的な芸術形式(絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション)、パフォーマンス、美術理論と大学教育、社会や政治活動である。

略歴


幼少期


ヨーゼフ・ボイスは、ドイツのクレーフェルトで、商人の父ヨーセフ・ジャコブ・ボイス(1888-1958年)と母ヨハンナ・マリア・マルグレート・ボイス(1889-1974年)のあいだに生まれた。

 

両親は1910年にゲルダーンからクレフェルトへ移り、ボイスは1921年5月12日に生まれた。その年の秋に家族はオランダ国境近くのドイツのライン川下流地域の産業都市クレーヴェへ移った。ボイスはそこで小学校と中学校に通った。

 

幼少のころからボイスはドローイング能力が秀でていたが、ほかにピアノやチェロなどの楽器をひくのも得意だった。

 

ボイスの近くに住むアヒレス・モルトガットのアトリエをよく訪ねるなど、芸術に接する機会もあったほかに北欧の歴史や神話、また自然科学にも関心を持った。ナチスが1933年5月19日に学校の中庭で焚書をはじめた際、ボイスは大規模に燃えさかる本の山から生物学者カール・フォン・リンネの「自然の体系」を拾い上げたという。

 

1936年にヒトラーユーゲントは国家の公式な青少年団体になり、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられると、ボイスはヒトラー・ユーゲントに加入する。1936年9月、15歳のときにニュルンベルクの集会にもボイスは参加した。

 

幼少期からボイスは自然科学に関心を持ち、医学の道を目指していたが、彫刻家ヴィルヘルム・レームブルック作品に影響を受けたことが理由で、結局、彫刻家の道を進む決意をする。1939頃にはサーカスに入って、約1年ほど動物の世話やポスター貼りなどのアルバイトをした。1941年に学校を卒業する。

第二次世界大戦とタタール人神話


1941年にボイスはドイツ空軍に入隊し、1941年にポーゼン州でハインツ・ジールマンの指揮下で軍の航空無線の訓練を受ける。なお二人はともにポーゼン大学で生物学や動物学の授業に出席していた間柄だった。

 

1942年にボイスはクリミアへ駐留し、戦闘爆撃機に搭乗する。1943年にケニグラーツに駐屯したJu 87(シュトゥーカ)急降下爆撃機に尾部銃手として搭乗し東部戦線で戦い、その後は東部アドリア海地域に配属される。戦時中に描いたドローイングやスケッチは保存されており、このときからボイス独特の画風が散見される。

 

1944年3月16日、ボイスの爆撃機はウクライナ近くのクリミア戦線でソ連軍に撃墜されて墜落する。ボイスの記憶によれば、パラシュートを開いて脱出するのが遅くそのまま落下したという。しかし、当時クリミアにいた遊牧民のタタールの部族に機体から救出され、体温が下がらないように傷口には脂肪を塗られ、フェルトにくるまれるなど手厚い看護を受けて、意識不明になった後、2日後に蘇生。

 

ロシアのドイツの間を行き来し、土地をもたないタタール人が前線にいなければボイスは生きていなかったという。記憶を取り戻して、覚えているのは「水」と話しかけたことや、テント内で食べたチーズ、肉、ミルクの味。その後、ボイスはタタール人と良好な関係を築くようになり、タタール族に加わるよう説得されたこともあるという。このタタール人の看護によってボイスは奇跡的に戦争を生き延びることになったことを、のちに何度も話している。

 

このタタールの話はボイスの作り話しともわれる。ボイスは3月17日から4月7日の3週間、軍病院に入院した記録が残っている。真実はドイツ捜索隊によって救出され野戦病院に入院していたとされている。しかも当時、タタールの集落はクリミアには存在しなかったという。

 

しかし、ボイスにとってこのタタール神話はボイスの芸術のアイデンティティの起源になる役割を果たしたのは間違いない。タタール人の看護で使われた脂肪フェルトといった非伝統的な素材は、そのまま彼の芸術作品に反映されている。

 

彫刻の伝統的創作方法はモデリング(肉付け)やカービング(彫ること)であるが、ボイスはこの伝統的作法をタタール人から教わった脂肪やフェルトを使った冷温効果で覆す。脂肪は冷やしたり、熱したりすると固まったり溶けたりし、また、フェルトには断熱作用がある。ボイスの作品にはこれらを使った作品が多い。

 

たとえば、1966年に制作した「グランドピアノのための等質浸潤」では、フェルトが彫刻の素材として使われており、フェルト彫刻というジャンルを打ち立てた。

ヨーゼフ・ボイス「グランドピアノのための等質浸潤」(1966年)
ヨーゼフ・ボイス「グランドピアノのための等質浸潤」(1966年)
ヨーゼフ・ボイス「脂肪のスーツ」(1970年)
ヨーゼフ・ボイス「脂肪のスーツ」(1970年)

デュッセルドルフ美術大学


負傷したにも関わらず、ボイスは1944年8月に西部戦線に送られ、訓練不足のパラシュート部隊に配属される。彼は大戦中、5回以上負傷しているため金のドイツ勲章バッヂを授与された。

 

1945年5月8日のドイツの無条件降伏の翌日、ボイスはクックスハーフェンで捕虜となり、イギリスの収容所に送られ、彼は8月5日に解放され、クレーヴェ郊外に住む両親のもとに戻った。

 

戦後、ボイスは地方の彫刻家のウォルター・ブリュや画家のハンス・ラムルスに出会った。ボイスは二人によって設立されたクレーヴェ芸術連盟に参加。1946年4月1日、ボイスはデュッセルドルフ美術大学の記念碑彫刻科を受講する。当初は古典的な芸術表現の授業だったヨーゼフ・エンセリングのクラスに割り当てられたが、3学期の後にクラスを変えることを決め、1947年に前衛芸術家のエワルド・マタレーのクラスに参加する。

 

エワルド・マタレーは戦前にナチスに退廃芸術として弾圧された芸術家だった。またルドルフ・シュタイナーの人智学はその後のボイスの芸術哲学で、その後の「社会彫刻」などの概念において重要な基盤となっている。「人智学は現実に対して直接的にまた実践的な方法で反映されるアプローチで、比較すると、認識論の議論のすべての形態は現在の流行やムーブメントに直接関わることなしに残る。」と話している。

 

ボイスは自然科学へ再び関心を移し、またハインツ・ジールマンと1947から1949年までさまざまな自然・野生動物に関する研究を行う。

 

1947年にボイスは、ハン・トリアを含むさまざまなアーティストと「木曜日集団」という芸術集団を設立。この集団は1947年から1950年の間にアフターキャッスルで、さまざまな展示、イベント、コンサート、討論会などを行った。

 

1951年にボイスはマタレーのマスタークラスへ入室。そこで、1954年までアーウィン・ヘイリッヒとアトリエを共有。ノーベル文学賞のギュンター・グラスの影響にあったマタレーのクラスは、キリスト教の人類学的雰囲気を形作っていたという。

 

この頃、ボイスはジェイムズ・ジョイスの本のアイルランドの神話的要素に、大変感銘する。ほかにドイツロマン主義小説やシラー、ガリレオ・ガリレイ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど、社会的な立場を意識して活動していた芸術家や科学者たちから大きな影響を受ける。彼らがのちのボイスの社会芸術の源となる。

 

年に一度開催されるクレーブ芸術連盟の展覧会でボイスは水彩画やスケッチ画を展示。またクラネンブルクにあるハンス・ファン・デル・グランテンの自宅ギャラリーで初個展を開催。また、ヴッパータールにあるフォン・デア・ハイト美術館で個展を開催。

 

ボイスは1953年にマスタークラスを卒業。32歳だった。その後、墓石制作や家具などさまざまな工芸仕事をしてわずかなからの収入で生活を始める。1950年代を通じてボイスは貧困と戦争時のトラウマと戦うことになる。

 

初期のボイスの美術作品はおもにドローイングだったが彫刻作品もいくつか制作している。ドローイング作業を通じてボイスはさまざまな非伝統的な素材を探求し、また自然現象や哲学的制度間の比喩的・象徴的な関係を探求した。1940年代後半から1950年台にかけて制作した327点のドローイングを集め、1974年に「アイルランドの秘密の人の秘密のブロック」というタイトルでまとめられ、またオックスフォード、ダブリン、ベルファストで展示が行われた。

 

1956年に自己の芸術に対する疑問や物質的貧困のためボイスは肉体的にも精神的にも危機的な状況になり、深刻なうつ病の時期になった。初期の最も重要なパトロンであったヴァン・ダール・グリントン兄弟の家に静養し、1958年にアウシュビッツ強制収容記念館での国際的なコンペに参加するが、うまくいかなかった。

 

また同年、「ボイスのユリシーズ」に関連した一連のドローイングを制作し始める。1959年に動物学者の娘でデュッセルドルフの美術教師をしていたエーファと結婚。

デュッセルドルフ美術大学教授時代


1961年にボイスはデュッセルドルフ美術アカデミーの記念碑彫刻学の教授となる。かれの生徒にはアナトール・ヘルツフェルド、カサリナ・シーヴァーディング、イェルク・イメンドルフ、ブリンキー・パレルモ、ピーター・アングレマン、エリアス・マリア・レティ、ウォルター・ダーンなどがいた。

 

ボイスが公衆を意識した芸術に着手したのは、1964にアーヘン工科大学で公演したパフォーマンスからである。アドルフ・ヒトラーの暗殺計画から20周年を迎えた新しい芸術祭典の一環として、ボイスはパフォーマンスを行った。

 

しかしパフォーマンスは生徒たちに中断され、生徒の1人はボイスに殴りかかった。当時の事件の写真、鼻から血を流して腕を上げているボイスの写真はメディアで取り上げられた。

 

また、この1964年の芸術祭典でボイスは独特なCV(履歴書)「ライフ・コース」を作成した。そのCVは、比喩的また神秘的な記述で歴史的事件とボイス自身の芸術人生を混ざり合わした架空のCVだった。この架空のCVの作成から、ボイスの生涯におけるさまざまな出来事が真実なのかフェイクなのか後々までわからなくなっていった。

 

このCVにはタタール人救命話は出てこないが、タタール救命話しがフェイクであると推測されるのも、このような背景がある。

ボイスはデュッセルドルフの授業の入学要件を廃止するという社会哲学案を発表。1960年代後半を通じて、こうした国家に反する政策は大きな制度的摩擦を引き起こすことになり、1972年10月にボイスは教職を退職することを考えた。その年、ボイスのクラスの入学を希望したものの入学できなかった142人の応募者がいるとわかった。

 

ボイスは「入学許可数の制限は基本的権利に反するものであり、収容の問題は現実に即して公平に解決されなければならない」といい、不合格者の自分入学許可を要請してアカデミーの事務局を占拠する。ボイスは即刻解雇の通知を受けた。4年間に渡る裁判を経て和解が成立するが、この出来事から自由大学の構想を固めていった。

フルクサス


1962年にボイスはデュッセルドルフ大学でのちにフルクサス運動でも活躍するナム・ジュン・パイクと知り合う。

 

ナム・ジュン・パイクとの関係の始まりは、芸術領域の境界線を越え、日常世界や美術機関の外部で創造を実践を目標としたフルクサス運動の始まりでもある。

 

フルクサスは第一次世界大戦時に発生したダダ活動から直接的に影響を受けていたが、1964年にボイスはテレビ放送されたアクション「マルセル・デュシャンの沈黙は過大評価されている」でダダイズムで活躍したデュシャンを強く批判。

 

ボイスが芸術の領域を超えて、社会や大衆に向かって芸術を実践していたのに対し、デュシャンは逆に、大衆とかけ離れた場所に芸術持ち込み、芸術と社会と乖離させたというのが批判点だった。ボイスは芸術を「誰もが生きるために役立つ技術」として実践していこうという主張だった。ボイスとデュシャンの遺産やレディメイドとの関係は、芸術をとりまく環境を論争が中心にある。

死んだうさぎに絵を説明する方法(1965年)


ボイスの商業ギャラリーでの初個展は1965年11月26日、デュッセルドルフのプライベートギャラリーであるシュメラ画廊で開催されたものであるが、ここでボイスのパフォーマンス(アクション)で最も有名な『死んだうさぎに絵を説明する方法』が披露された。

 

これは観客をガラス壁の向こうに追い出して、ギャラリーの中で死んだ野うさぎを腕に抱き、うさぎに絵画の説明をし、その後、野うさぎの身体を絵画に直接触れさせた。ボイスは頭を蜂蜜や金箔で覆い、右足には鉄の靴底を履き、左足にはフェルトの靴底を履いていた。パフォーマンスの3時間後に鑑賞者は部屋に入り、ボイスは入口のそばにあるイスに兎を抱きながら座った。

 

このパフォーマンでボイスは、絵画について本当に重要なことを理解するには、説明を聞くのではなく、絵を良く見ることだけだということだった。このパフォーマンスはボイスの「社会彫刻」の展開の重要なポイントとなった。

 

なお、パフォーマンスで利用された各種素材は、ボイスにとって象徴的な価値があった。たとえば、蜂蜜はミツバチの生産物であり、ボイスにとってミツバチの生態系は、暖かさと兄弟愛に包まれた理想的な社会を表すという。金は錬金術を表し、鉄は火星を表しているという。

 

ボイスの初個展は1953年にクラネンブルクのハンス・ファン・デル・グリテンとフランツ・トーゼフ兄弟の自宅で開催した企画となっている。また、1964年にカッセルの「ドクメンタ」で初めて参加。

チーフ(1964年)


ベルリンのルネブロック画廊の地下で、ボイスは大きなフェルト製の毛布を敷いて、その中に自身がくるまった。毛布の両端からは2頭の死んだ山羊が置かれていた。それはボイスのパフォーマンスでよく見られるものだった。ボイスの周りにはほか胴棒、フェルト、脂肪が設置されていた。毛布の中でボイスはマイクロフォンを手にして、出入り口から観客が見ている中、8時間もマイクロフォンに向かって何かつぶやいていた。

 

このパフォーマンスは、ボイスが参加していたフルクサスの動きと直接関わりがある。また、フェルトの毛布に包まれていることは、ボイスの戦争で墜落した後に救助されたタタール人の話を反映している。