インディペンデント・アニメーション / Independent animation
"表現の自由"を尊重したアニメーション
概要
インディペンデント・アニメーションはプロのハリウッドアニメーション産業外で制作された短編、および長編アニメーションである。作品の大半はアニメーション祭やプライベートルームで上映される。インディペンデント・アニメーションの最も重要な要素は“表現の自由”である。インディペンデント・アニメーションは、日本では「アート・アニメーション」「実験アニメーション」などと呼ばれることもある。
インディペンデント・アニメーターの多くは、無声映画時代から今日にいたるまで、実験的な表現の短編作品を制作する傾向が見られる。インディペンデント・アニメーション史において最初期の長編アニメーション作品といえば、1926年にロッテ・ライニンガーの影絵アニメーション『アクメッド王子の冒険』ぐらいである。
「アート・アニメーション」という言葉は、日本国内でチェコやロシアの人形アニメーションが盛んに公開されるようになった2000年前後から盛んに使われ始めるようになった言葉である。。「アート・アニメーション」はいわば日本の俗語で、明確な定義をすべき語ではない。
俗語ではあるが、意味合い的には、「主として非商業の立場で、キャラクターやストーリーよりも、映像の美的・造形的な価値を追求することで、作者の個性が強く現れたアニメーション」のようなものといっていいだろう。
インディペンデント・アニメーションの起源
インディペンデント・アニメーションは、元々「漫画映画」(cartoons films)として発達する系譜をたどったが、前衛芸術運動が盛んな20世紀前半、ダダイスムの流れを組んだ芸術表現の一形式として取り入れるアニメーターが現れ始めた。
1920年代ドイツでは抽象的な図形を音楽に合わせて動かし、その動きそのものの美を表現しようとしたアニメーション作品がある。いわゆる抽象芸術であるが、抽象アニメーションのパイオニアとなったのは、ドイツの画家ハンス・リヒターである。リヒターは1921年に初の抽象映画「Rhythmus 21』を制作した。
また、ドイツの抽象アニメーション作家の中でも最も有名なのが、オスカー・フィッシンガーある。フィッシンガーは元々音楽家志望であったが、第一次大戦の混乱の中でオルガン製作、建築、製図工などさまざまな仕事に従事しながらも、全体としては技術者の道を歩んだ
その後、前衛映像作家であったW・ルットマンとともに仕事をはじめたことをきかっけとしてアニメーションの世界に入り、1929年、「スタディNo.1」を発表した。これはブラームスなどのクラシック音楽をBGMとして図形が画面いっぱいに、そして自在に動き回り、その動きそのものを「視覚音楽」として見せようという作品で、後の多くの映像作家に影響を与えた。
また、スコットランド生まれでカナダで活躍したN・マクラレン(Norman McLaren)は、同時代の美術界の巨匠達たち、ソ連の作家、特にドイツ表現主義に影響を受け、またイギリスのL・ライ(Len Lye)の抽象アニメーションにも興味をもって、カナダ移住後、シネカリグラフ、ダイレクトペイント、ピクシレーション等をはじめとするさまざまな手法を駆使して、実験的なアニメーションを多数制作し、「実験アニメーション」のパイオニアとなった。