民俗学的なものへ関心はいつごろから芽生えたのでしょうか?
故郷での暴力と殺意の記憶
本格的に関心を持つようになったのは大学生からですけど、小さい頃からずっと関心はありました。みんなと遊ぶより、こっそり一人で神社の境内に行ったり、夜明けの海へく行くと変わったおじいさんとかいたんです。
まるで亡霊のようにずーっと水平線を見ている人とか。そういう原風景が強く印象に残っていて、どういう因果でその風景が成り立っているのか、素朴に疑問を持ったりして。きっと、自己実現より、世界への好奇心が圧倒的に勝ってしまうところがあるんでしょうね。
あと、当時の時代背景もあって、飼い犬に避妊をしないから、増え過ぎて育てられなくなった仔犬を海岸端に捨てに行く人が後を絶たなかったんです。そうすると海で仔犬たちが自分たちで生きていかないといけないから、野犬化し群れ化して、人間を襲うようになったんです。そういう野生化した犬の記憶が強くあります。暴力と殺意の記憶というか。
アブノーマルな部分を普遍化したい欲望
海辺を歩いてたら、ヒッチコックの映画みたいですけど、気づいたら数十匹の犬に囲まれている状況が実際にありました。
学校から帰っているときに校内放送で「猟友会の人が野犬の駆除をしていますので絶対に海に近づかないでください」って、それで「パーン」っていう銃声が聞こえてくるんです。野生も人も飲み込んだ、純粋な悪意が剥き出しの環境でした。
そういう小学校の頃の経験はごく普通の事かと思ってたのですけど、東京に出て来て、これは只事ではなかったんだなと気づき、僕の記憶のアブノーマルな部分を普遍化したいという創作意欲が湧き出てきて、必然的に民俗学に対する関心を高めたのだと思います。それは、自分自身のルーツを信じることでしょうし。
今後、撮影したいものとかは?
人情ものの反動で暴力的なものを撮りたい
「ねぼけ」では自分にミッションを課していました。落語を扱う以上、悪人を出さないようにする。寅さんを目標にする。でも、人情物を作った反動もあって、ラディカルなものとか、暴力的なものとかを撮りたくなっています。
自衛隊のことで気になった話があります。とある災害救助の際に、ある若い自衛隊員が義憤にかられて命令が下る前に救助活動をしようと独断で動こうとしたらしいのです。でも自衛隊という組織では、勝手な行動はクーデターだと見做されます。結局大事にはならなかったのですが、善意の行動を静止されたときの彼の気持ちを想像すると、相当に厳しい憤りがあっただろうなと。小さな良心が大きな怒りに代わるような瞬間というか、途方もないものに抗い続ける孤独そのものを撮りたいと思っています。
韓国だと、軍事境界線で濃厚な人間ドラマが生まれます。兵役を含め、戦時の体験ってすごい大きいと思います。軍隊を経験するか、しないか。友達だったのに境界線ができて分断されてから殺し合わないといけなくなったとか。今の日本において、取りあえずはそういった状況は考えられない。悲惨なものは、益々見え辛くなっています。
日本の映画って、どんどん、ふにゃふにゃで手応えを感じにくいものになっていく予感がします。不都合な真実には目を瞑って、単純な快楽や自己啓発だけを見ようとするような。僕自身はアーティスト出身だと思っているので、また民俗学者として、不快なものやおぞましいものも含めて、正面から描いていきたいと考えています。
学者であり市井の一人でありたい
ただ単に、間口が広いものを作りたいわけじゃないんです。次世代にヒントになるようなものになればいいなと思っていて。
「ねぼけ」を作ることで、これから先に 100 年後、落語を知らない人が、「落語の映画 10選」みたいなので「へえ、こんなのあったんだ」と感じるぐらいの残し方でもいいんです。そういうさり気無さは、学者であり市井の一人であろうとした宮本常一先生への憧れなんです。
宮本先生は、今、この文化や証言を採取しておかないと、古代の思想そのものが根絶すると直感して、足と言葉を駆使して、気の遠くなるような地道な取材と執筆を重ねました。僕も映画を通して、宮本先生のような実直な仕事をしていきたいと願っています。
劇場情報
新宿ケイズシネマにて12月17日(土)より劇場公開 モントリオール世界映画祭正式出品
東京 |
ケイズシネマ(2016年12月17日〜2017年1月13日迄公開) |
大阪 | 第七藝術劇場(2017年ロードショー) |
京都 | 京都みなみ会館(2017年ロードショー) |
愛知 | シネマスコーレ(ロードショー) |
宮崎 | 宮崎キネマ館(2016年10月15日〜10月28日迄公開) |