ジャン・ジロー / Jean Giraud
メビウスの名で知られるフランスの巨匠漫画家
概要
ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(1938年5月8日-2012年3月10日)はフランスの芸術家、漫画家。ベルギー・フランスを中心とした地域の漫画バンド・デシネの作家。おもに『ブルーベリーズ』シリーズや絵画制作時に使用された“メビウス”というペンネームや、本名を短くした“ジロー”の愛称で親しまれ、世界中に多くの熱烈なファンを持つ。
とりわけ、フェデリコ・フェリーニ、スタン・リー、宮崎駿、大友克洋などへ直接的な影響を与えており、ベルギーの巨匠漫画家ジジェ後に最もヨーロッパで影響を与えた漫画家である。
代表作品は作家のジャン・ミッシェル・シャリエ原作の西部劇アンチヒーロー作品『ブルーベリーズ』シリーズ。メビウス独自の高度な想像力、シュルレアリスム、抽象スタイルを利用し、SFからファンタジーまで幅広い表現を展開。これらの作風は『アルザック』や『密封されたガレージ』などに見られる。
また前衛映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーとのコラボレーションも有名で、漫画では『アンカル』、映画では『Dune』の制作に関わる。メビウスはほかに、『トロン』『エイリアン』『フィフス・エレメント』『アビス』など、さまざまなSF&ファンタジー映画においてコンセプト・デザインやストーリーボードの協力を行なっている。2004年にメビウスとホドロフスキーは、『フィフス・エレメント』は『アンカル』の影響を受けているとして、訴訟を行なったものの、曖昧な状態で訴訟は取り消しとなった。
略歴
幼少期
ジャン・ジローは、1938年5月8日、パリ郊外のヴァル=ド=マルヌ県ノジェント・シュル・マルヌで、保険代理店の父レイモン・ジローと代理店で働いていた母ポーリーヌ・ヴィンションの間に一人っ子として生まれた。
3歳の時に両親は離婚し、ジローはおもにに隣の自治体であるフォンテーヌ=スー=ボワに住んでいた祖父母に育てらる。その後、ジローが有名になった頃、1970年代半ばに自治体に戻って住んでいたが、祖父母の家を購入することができなかった。父と母の離婚は彼の心に消えないトラウマの種となり、それが本名と分離したペンネームを作った理由とジローは説明している。
最初は内向的な子供だったジローは、第二次世界大戦後、母親が住んでいた通りの角にあった小さな劇場に慰めを見出しいた。そこは、同時に戦後復興期のフランスの寂しい雰囲気からの逃避場所だった。
ここでは、アメリカのB級西部劇を数多く演じられており、当時のヨーロッパの多くの少年たちがこのジャンルに情熱を燃やして、ジローもまた夢中になって劇場に足繁く通っていた。
9~10歳ころ、ジローはイッシー・レ・ムーリノーのサン・ニコラス全寮制学校に2年間通いながら洋画を描き始めた。そこでスピルーやタンタンなどのベルギーの漫画雑誌に親しんだり、学校の仲間たちと楽しい生活を送った。
1954年、16歳の時に、デュプレ王立高等美術学校で唯一の技術訓練を受け、西洋のコミックの制作を始めた。
大学では、ジャン=クロード・メジエールやパット・マレットといったのちの漫画家たちと親交を深めた。特にメジエールとは、SF、西部劇、極西への情熱を共有していたこともあって、ジローは生涯にわたる親密な友情を育み、のちにメジエールについて「生涯冒険を続けている」と話している。
1956年、メキシコでメキシコ人と結婚した母を訪ねるため、卒業せずに美大を中退し、9ヶ月間滞在した。メキシコの砂漠、特にその果てしなく青い空と果てしなく続く平原の経験は、ほんの数年前に銀幕で西部劇を見たときに彼を夢中にさせた風景の本当の体験であり、それは彼に永遠の印象を残し、後のほとんどすべての作品で現れるようになった。
フランスに戻ってからは、カトリックの出版社フルーラスで常勤の画家として働き始め、少し前に出版社に就職していたメジエールに紹介された。
1959年から1960年にかけて、ジローは最初にフランスのドイツ占領地で、その後アルジェリアで兵役に就くことになっていた。しかし、幸いなことに、彼は何とか前線での任務から逃れることができた。当時、グラフィックの経歴を持つ唯一の軍人であった彼は、兵站業務に加えて、陸軍雑誌『5/5 Forces Françaises』のイラストレーターとして働くことになった。
アルジェリアはジローにとって二度目の馴染みの深い、メキシコと同じようにりエキゾチックな文化との交流があった。郊外の都会の少年として生まれた彼には,この経験がまた忘れがたい印象を与え,その痕跡を後のコミック,特に「メビウス」名義で制作されたものに残している。
作品
西洋コミック
18歳のジローは、雑誌『ファー・ウェースト』のために、モリスの影響を受けたユーモラスな西洋コミックの2ページの西部劇『フランク・エ・ジェレミー』を描いた。これが最初のフリーランスの商業作品となった。
雑誌編集者のマリジャックは、若きジローにはユーモラスなコミックの才能はあるが、現実的に描かれたコミックの才能はないと考え、「フランク・エ・ジェレミー」の流れを引き継ぐようにアドバイスした。
フルーラス(1956-1958)
ジローは最初の作品を出版したあと、1956年から1958年までフルーラス出版社に在職したが、同時に、リアルに描かれた西洋のコミック(フランスの歴的な性質のものをいくつかある)や、雑誌『Fripounet et Marisette』、『Cœurs Vaillants』、『fr: Âmes vaillantes』の社説用のイラストレーションを地道に描き続けていた。
すべての作品はフランスの思春期の若者を対象とした強い啓発的な性質を持っており、彼のリアルな画風は彼の長所となっていた。
彼のリアル西部劇の中には、『バッファローの王』と『ヒューロンの巨人』と呼ばれるコミックがあった。実際、「バッファローの王」を含む彼の西部劇のいくつかは、同じ主人公アート・ハウエルを主人公としており、これらはジローの事実上の最初のリアル西部劇シリーズとみられている。
ジローが最初の3冊の本の挿絵を描いたのは、フルーラスの仕事のためだった。この時期にすでに彼のスタイルは後のメンターとなるベルギーのコミックアーティスト、ジョセフ ・ジエ・ギランに多大な影響を受けている。彼は当時、ジローの友人のメジエールを含む若い世代のフランスの漫画家世代全体に影響を与えていた。
ジョセフ ・ジジェ・ギランがジローと同じ世代若い作家たちにどれほど大きな影響を与えたかは、彼らの作品がフルーラスの出版物に投稿されたことからも明らかであり、彼らの画風は互いに似ていた。例えば、ジローがフルーラスで出版した2冊の本は、フランス・ベルギーのコミック界で将来的に有名になると思われるギイ・ムヌーとの共作だったが、ジローの作品は彼のサインがあったからこそ識別できるのであるが、ムヌーはサインをしていなかった。
フルーラスでのジローの稼ぎは十分ではなかったが、コースや一般的な雰囲気、学問的規律に嫌気がさしたジローは、わずか2年で美術学校の教育を辞めることができたが、後の人生でその決断を多少後悔するようになった。
ジジェの見習い
兵役に入る少し前に、ジローはメジエールとマレは一緒に初めて師匠ジジェの家を訪れ、その後も師匠の仕事ぶりを自分の目で見ようと何度か訪れている。
1961年、兵役から戻ってきたジローは、「自分が進化したいのであれば、他のことをしな ければならない」と感じ、フルールに戻りたくなかったが、ジローが軍にいる間に芸術的な進歩を遂げているのを見て、ジジェの招きに応じて弟子となった。
ジエは当時ヨーロッパを代表する漫画家の一人でありジローを含む若い漫画家志望の若者たちのために、シャンプロサイに家族の家を開放してメンターとして振る舞ってくれていた。この点でジジェはベルギーのコミック界の巨匠ヘルジェに似ているが、ジジェとは異なり、ヘルジェは純粋に商業的な活動をしていただけで、自発的な活動をしていたわけではない。
ジローはジジェのもとで、いくつかの短編やイラストレーションを制作しているが、これは短期間の雑誌『ボヌー・ボーイ』(1960/61)に掲載されたもので、兵役後の最初のコミック作品であり、『ブルーベリー』に参加する前の最後の作品である。
アシェット社(1962-1963)
ジジェのもとで働いたあとジローは、友人のメジェールに再び声をかけられ、アシェット社の意欲的な複数巻の『L'histoire des civilisations history reference』のイラストレーターの参加をもちかけられた。
弟子にとって素晴らしい機会であると考えていたジジェに後押しされ、ジローはその仕事を受け入れることになった。歴史的建造物やイメージを油絵具で描かなければならないという大変な仕事ではあったが、これまでで最高の給料の仕事であると同時に、重要な仕事でもあった。
アシェット社でジローはガッシュでアートを制作するコツをつかんだ。このときの技術は、後にブルーベリーの雑誌やアルバムのカバーアートを制作する際、また、1968年のサイドプロジェクトであるジョージ・フロンヴァルの歴史書『Buffalo Bill: le roi des éclaireurs』のために、ジローは表紙を含むガッシュでのイラストレーションの3分の2を提供している。
アシェット社での仕事は、ジャン・ジロー とジャン=ミシェル・シャルリエによる本『Fort Navajo』に着手するため短縮された。つまり、ジローは本シリーズの最初の3〜4巻だけに参加し、残りはメジエールに任せた。
ピロート時代には、ジローは西部劇をテーマにした2つのレコード音楽作品のスリーブアートや、ルイス・マスターソン原作のモーガン・ケイン西部劇小説シリーズのフランス語版の最初の7作品の表紙も制作している。
ブルーベリーを含む、この時代の西洋をテーマにしたガッシュ画の多くは、1983年のアートブック『Le tireur solitaire』に収録されている。
プロフェッショナル的な点からジローのアシェット社での仕事は重要だったが、私生活においても重要だった。のちに妻となるアシェットの編集研究員であるクローディーヌ・コナンに出会っている。彼女は将来の夫を「面白くて、単純で、気さくで、隣の家のいい子」と評しましたが、一方では「ミステリアスで、暗くて、知的」であり、他の人よりもずっと前から彼が「先見の明のある人」の素質をすべて備えていることを認識していたという。
ジローがブルーベリーの作家として有名になった後の1967年に結婚し、二人はエレーヌ(1970年生まれ)とジュリアン(1972年生まれ)という2人の子どもをもうけた。
特に娘のエレーヌは父親のグラフィックの才能を受け継ぎ、アニメーション業界でグラフィック・アーティストとしてのキャリアを切り開き、2014年に父親がすでに1985年に受けていたのと同じフランスの文民騎士章を受賞した。
子育ての傍ら、妻のクローディーヌは夫のアートワークのビジネス・マネジメントだけでなく、時には色着け師としても活躍している。
1976年のフェミニスト・ファンタジー短編小説『La tarte aux pommes』は、彼女が旧姓で書いたものである。さらに、ジローのブルーベリーシリーズの後の主要キャラクターであるチワワ・パールは、一部クローディーヌが基盤になっていた。
Pilote (1963–1974)
1963年10月、ジローと作家のジャン=ミシェル・シャルリエは、コミック・ストリップ作品『ナバホ砦』の共同制作を始める。このとき、ジローとジジェの絵が非常によく似ていたのでジローが無断欠勤したきには代わりにジジェが数ページ描いていた。
事実上、「ナバホ砦」の連先が始まるとピローにはジローの盗作を非難する手紙が届いたが、これはジジェとジローが予想していたことだった。ジジェはそのように非難を避け、かつての教え子を励まし、自信を与えた。
ジジェがはじめてジローの代役をつとめたのは、第2話『西の雪』(1964年)の制作中のときである。まだ経験の浅いジローが、予定されいていた厳しい雑誌連載のスケジュールによるストレスで神経を消耗したので、代わりにジジェが28〜36版を代筆した。
二度目は一年後の『メキシコへのミッション(失われたライダー)』の制作中に起こったもので、ジローは予期せず荷造りをしてアメリカと再びメキシコを旅することになった。この時も、かつての師匠であるジジェが17-38版を鉛筆で描いてくれた。
西の雷』では両作家の画風がほぼ見分けのつかないものになっていた。しかし、ジローが「メキシコへの伝道」の39版で作業を再開した後には、明らかにスタイルの綻びが見られるようになり、ジローが独自のスタイルを確立しつつあったことを示している。恩師のジジェを凌駕するまでに成長したジローは、以前の弟子の成長に感銘を受け、のちに「ランボーのBD」と呼ぶようになった。
俳優ジャン=ポール・ベルモンドの顔をモチーフにしたブルーベリー中尉は、1963年にシャルリエ(シナリオ)とジロー(作画)によって『ピロート』のために制作された。『ナバホ砦』はもともと群像劇としての物語を意図していたが、すぐにブルーベリーを中心人物とする方向気に切り替わった。
のちにブルーベリー・シリーズと呼ばれるようになったもので、彼の特徴的な冒険は、のちにアレハンドロ・ホドロフスキーとのコラボレーション前にネイティブフランスと残りのヨーロッパでよく知られているジローの作品かもしれない。
初期のブルーベリーコミックは、ジジェと似たシンプルな線画スタイルと標準的な西部劇のテーマとイメージ(具体的には、ジョン・フォードのアメリカ騎兵隊西部三部作のもの)を利用していた。
しかし、ジローは次第に、1970年の『ソルジャー・ブルー』や『リトル・ビッグ・マン』(『アイアン・ホース』のストーリーアーク)、セルジオ・レオーネのスパゲッティ・ウエスタン、特にサム・ペッキンパのダークなリアリズム(『ロスト・ゴールドマイン』以降のストーリーアーク)に触発されて、よりダークでグリットなスタイルを確立した。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Giraud、2020年5月6日アクセス