奈良美智香港個展インタビュー2
僕が見た風景
翻訳元:Asia Society
今回の展覧会のタイトル「Life is Only One」について教えてください
子どものとき、僕にとって「ライフ」という言葉は、もちろん外国の概念だった。
しかし50歳を越えて、また東日本大震災で多くの人たちが亡くなったことで、自分自身にとって「ライフ」という言葉が非常に現実的で身近なものだと感じるようになってきた。
「ライフ」には限りがある。だから生きている間に、精一杯やるべき事を成すのが大切なことなんだと。
作品の多くに現れる「子ども」は何を意味しているのですか?
僕が絵を描き始めたころに僕が見た風景で、絵がまるで写真のようにリアリティを持って現象化し始めたときに喜びを感じた。
つまり子どもたちは僕の風景そのもので、僕が求めている子ども像や考えて描いたものではなく、心の中にある混沌を写しだしたようなもの。
だから僕の過去のさまざまな経験や記憶が引き伸ばされて現在に表出されたもので、自分自身の心の中の声が「子ども」像として絵に現れてくる。意識的に子どもを描いているのではなく、どちらかといえば、自然に勝手に画面の上に現れてくるものだ。
今回の展示ではサハリンなど旅写真もありますが
旅は少し個人的なものだ。僕の母方の祖父は農夫で農業シーズンのオフ時には、よく南サハリンや千島列島に鉱山労働者として出稼ぎに出ていた。それで、僕の祖父が見た風景を見たかった。
日本人として生まれ、東北で育ったため、これまではどちらかといえば南部方面に意識があったけど、今は逆に東北よりさらに北方面が気になるようになった。
また、アイヌ民族をはじめ、北部の少数民族に対して敬意の念があり、北部の民族たちとのつながりを感じることがある。
国民性や民族性をアイデンティティにして作品を制作されてますか?
僕は60年代から70年台のアメリカやイギリスの音楽が好きで、それらを聴いて育った。それで僕と同じ世代の平均的なアメリカ人やイギリス人よりも僕の方が音楽に詳しいとおもう。
このことは、日本にアメリカ文化が洪水のように流れこんだ戦後日本の特徴の1つで、国家や民族を越えたグローバルな文化の縮図のような状態。それでいろんな国の文化がごちゃ混ぜになって育っているので、僕としては国民性や民族性を基準にして作品を位置づけるのは、むしろ時代遅れの芸術ではないかと思う。
さらに今はインターネットの普及によって外部へのアクセスが簡易になり、昔よりもさらにグローバルな文化になっているので国民性や民族性を基準にして作品を定義付けることは無視されていくと思う。