【美術解説】エドワード・ゴーリー「残酷で美しい大人の絵本」

エドワード・ゴーリー / Edward Gorey

残酷で美しい大人の絵本


概要


エドワード・ジョン・ゴーリー(1925年2月22日-2000年4月15日)はアメリカの作家、絵本作家。


ペンとインクを使ったドローイング形式でヴィクトリア朝やエドワード朝といった大英帝国時代のダンディズム的世界観や物語をあいまいに描く。作家でもあり、文筆のみで絵は他の人が描く作品も多い。

 

子どもたちが次々と悲惨な目に遭う不条理でナンセンスなストーリー徹底して韻を踏んだ規律ある言語表現がゴーリー基本的な表現スタイルである。

 

子どもが残酷な目に遭う事について、ゴーリーは特に子どもが嫌いでも、好きでもなくい、現実生活でも子どもに関心を示すことはなかった。女性にも男性にも関心がなかった。また大英帝国のことばかり書いているが、本人はイギリスとまったく関係なく、海外旅行も嫌いで、唯一行ったことがあるのはスコットランドの島々のみ。アメリカから出ることはなかった。

 

愛猫家としても有名で、飼い猫には『源氏物語』からとった名前を付けている。また作品の中で猫が嫌な目に遭ったりすることはほとんどない。兵役以外は猫と暮らす日常だった。

略歴


幼少期


エドワード・ジョン・ゴーリーはシカゴで、母ヘレン・デュマと父エドワード・リード・ゴーリーのあいだに生まれた。ゴーリーが11歳のとき両親は離婚するが、27歳のとき再婚した。

 

継母の1人であるコリーナ・ミュラは、古典映画「カサブランカ」で脇役も勤めたことがあるキャバレー歌手で、リックス・カフェ・アメリカンで「ラ·マルセイエーズ」を歌っていた。父はジャーナリストだった。

 

ゴーリーの母親らしい人といえば曽祖母のヘレン・ジョン・ガーベイで、彼女は19世紀のグリーティングカード専門の作家で、ゴーリーは彼女から絵の才能を受け継いだと言っている。

 

ゴーリーは、子どものころ地元の学校を卒業し、シカゴのフランシス・W・パーカー・スクールに入学した。1944年から46年までユタ州米軍の兵役につき、1946年にハーバード大学に入学。50年に卒業。大学時代はフランス語を勉強。級友に詩人のフランク・オハラがいた。

 

1950年初頭、ゴーリーとアリソン·ルーリー、ジョン·アシュベリー、ドナルド・ホール、フランク・オハラといったハーバード時代の友人たちと「ケンブリッジ詩劇場」を創設。ジョン・キャーディやソーントン・ワイルダーなどハーバード系の才能のある芸術家が多数参加した。

独立以前


1953年から1960年まで、ゴーリーはニューヨークに住んで、ダブルデイ・アンカーの芸術部門で絵本の装画や絵本などさまざまな仕事をしていた。

 

ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』や、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』、T・S・エリオット『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』など多様な作品のイラストレーションや装画を担当。

 

1960年、童話を多く出版するルッキング・グラス・ライブラリー社に移籍。ジョン·ベレアズの多くの児童小説のイラストレーションを担当。ベレアズ死後、ブラッド·ストリックランドによって受け継がれたベレア図作品の仕事もこなした。


絵本作家としてゴーリーの最初の仕事は、1953年に出版された『弦のないハープ』である。そのときゴーリーは、ファーストネームとラストネームを文字って「Ogdred Weary,」「Dogear Wryde」」Ms. Regera Dowdy」など10種類以上のさまざまなペンネームを使っていた。

ゴーリーがイラストを担当したH・G・ウェルズの『宇宙戦争』
ゴーリーがイラストを担当したH・G・ウェルズの『宇宙戦争』
T・S・エリオット『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』
T・S・エリオット『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』
ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のイラスト。
ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のイラスト。

独立後


ニューヨーク・タイムズ紙は、書店経営者アンドレアス・ブラウンと彼の書店「ゴッサム・ブックマート」が、ゴーリーを世間的に有名にし、またビジネス的な成功に導いたと考えている。ブラウンとゴーリーは友人で、ゴーリーの作品を店内ギャラリーで展示し始めたことが、ゴーリーが国際的に有名にになっていたターニングポイントだと言われている。

 

ゴーリーは、漠然と不安感の漂うヴィクトリア朝やエドワード朝時代の風景を描き、その作風に熱狂的なファンを作っている。ゴーリーが一般的によく知られている作品は、1980年のミステリ・ドラマを放映する番組「Mystery!」である。番組のオープニング・アニメーションや、ドラマが始まる前にホストのダイアナ・リグが口上を述べる時のセットデザインなどを手掛けていた。

 

ほかには1977年のブロードウェイ演劇の「ドラキュラ」の宣伝用ポスターで、アメリカ合衆国の演劇及びミュージカルの賞の1つ「トニー賞」で、ベストカスタムデザイン賞を受賞している。


ゴーリーはイギリス人?


ゴーリーの作品に出てくる風景や人物の多くはイギリスだったので、多くの人はゴーリーをイギリス人だと勘違いしていた。実際のところゴーリーは生粋のアメリカ人で、一度スコットランドの島々に行ったことがあるだけで、一度もアメリカから離れていない。

 

後年、ゴーリーはマサチューセッツ州のマウスポートのケープコッドにある庭付き家を買い取り、そこで数多くの制作を行なうようになった。この屋敷で死ぬまで過ごし、6匹の猫と3万近くの本に囲まれて過ごした。

マサチューセッツ州ケープゴッドのゴーリーの自宅。大きく「エドワード・ゴーリーの家」と書かれてあるから間違いない。
マサチューセッツ州ケープゴッドのゴーリーの自宅。大きく「エドワード・ゴーリーの家」と書かれてあるから間違いない。