ニューヨーク・ダダ / NewYork Dada
ダダ以前から始まっていた反芸術運動
概要
ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だった。1915年に戦火を避けてアメリカへ移住していたマルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアは、ニューヨークでアメリカ人画家のマン・レイと出会う。そして1916年、彼ら3人はアメリカにおける反芸術運動の中心メンバーになった。
彼らの活動となった場所は写真家のアルフレッド・スティグリッツのギャラリー291だった。スティグリッツが私費で運営していた小さなギャラリーでは、ヨーロッパの先鋭的な美術やアメリカの新しい美術家を積極的に紹介しており、そこにデュシャンやピカビアなどが集まっていた。
またボストン出身の詩人で批評家でコレクターのウォルター・アレンズバーグがデュシャンのところへやってくる。アレンズバーグは1913年のアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体.no2』を機に、デュシャンの作品に非常に興味を持っていたためである。後年、デュシャンはアーモリー・ショーの『階段を降りる裸体.no2』が、あとにニューヨークに来たときに、非常に有益な形で役にたったと語っている。
デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。ニューヨーク・ダダは『The Blind Man』という雑誌を発行し、その誌上において古典的な美術の制度を批判し、新しい美術と文化の創造に挑戦していた。
デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置くことだった。レディ・メイドは造形的な美や工芸的な喜びとは関係なく選ばれており、そこには既存のアートの制度に対する批判性が含まれていた。
デュシャンが「泉」で提示したことを簡単に説明すると「便器を日常の文脈から引き離して、美術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」と言われている。デュシャンが攻撃した伝統的な制度とは、作者が自分の思想や観念を作品の形にし、鑑賞者は作品を通じて、作者の意図や思想や観念を自分の中で再現するというものである。
そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に投入した。すると本来何もメッセージもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。つまり、美術の真の作者は鑑賞者であることを伝えたかったのである。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使っていた。