アメリカ現代美術史1
アメリカにやってきたヨーロッパ前衛芸術
アメリカ近代美術の幕開け
アーモリー・ショーは、1913年にアメリカ美術・彫刻家連盟によって組織された国際近代美術展。アメリカで最初の大規模な近代美術展である。
1913年2月17日から3月15日まで、ニューヨークの25番街から26番街のレキシントン通りにある69番連帯兵器庫で開催された。その後、シカゴ美術館、ボストンにあるコプレー美術協会を巡回展示したが、スペース不足のためアメリカ人美術家らの作品は展示されなかった。
アーモリー・ショーはアメリカ美術史において重要な出来事である。これまでのアメリカ美術といえば具象的なリアリズム絵画であったが、この展覧会でフォーヴィスム、キュビスム、未来派などのヨーロッパの前衛的な芸術スタイルが初めて紹介され、以後のアメリカ現代美術の生成に多大な影響を与えた。
また、アーモリー・ショーから美術展覧会や美術市場の拡大が本格的に始まり、一般庶民に対する美術知識の浸透が起こりはじめ、現代美術の顧客を拡大させた。
「階段を降りる裸体 No.2」
美術に関してヨーロッパの属国の感があったアメリカが、ヨーロッパからそのイニシアチブを奪取するきっかけとなり、またアメリカを活性化し、近代化する上で強力な起爆剤となった展覧会が、第一次世界大戦直前に開催された「アーモリー・ショー」である。
内容は当時のアメリカ美術とヨーロッパ美術の二本立てであった。ヨーロッパ部門にはドラクロワ、クールベのような古典の巨匠から印象派、後期印象派を経て、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ワシリー・カンディンスキー、未来派などの前衛芸術が紹介された。
このとき、フランス美術から出展されたマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」は非難、嘲笑の的になったが、一方で、現代美術の新しい可能性、ヨーロッパという父を打ち破るための新しい美術を模索していたアメリカの若い芸術家、また進歩的なコレクター、美術関係者にとってはデュシャンは強力な刺激、啓示となった。このデュシャンがアメリカに与えた衝撃をもってアメリカの現代美術“元年”とする見方がある。
人気が高まって、ニューヨーク展後、シカゴとボストンに巡回展を行なった。その観客動員数は延べ30万人に及んだとされる。お祭り騒ぎではあったが「アーモリー・ショー」は、予想外に大きな意義を美術界だけでなくアメリカ社会全体に残したその1つは、マスコミや世間の嘲笑を予想した前衛的主張であったのに、会期中123点のヨーロッパ作品と51点のアメリカ作品が売れたことである。
また影響力の強い著名人を現代美術コレクターに向かわせたのもこのショーの功績であった。歴史の浅いアメリカ美術に対するコンプレックスが、未知なる前衛芸術への好奇心、未来志向がデュシャンの芸術をとらえた。そしてこの後、アメリカに画商や画廊が急速に増え、美術マーケットの拡大を招来したのだった。
デュシャンがアメリカに渡ったのは、第一次大戦以前の1915年であるが、アーモリーショーにおけるヨーロッパとアメリカでの自作品への反応の違いが、渡米を決意させたといわれている。
1915年ごろマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイが集まり、現代美術コレクターとして知られるアレンズバーグ夫妻のサロンは、ニューヨーク・ダダの拠点と化し、ヨーロッパ・ダダに先駆けたのである。