エドゥアール・ヴュイヤール / Édouard Vuillard
装飾芸術を得意としたナビ派の画家
概要
生年月日 | 1868年11月11日 |
死没月日 | 1940年6月21日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 絵画、版画家 |
ムーブメント | 後期印象派、ナビ派 |
関連サイト | ・WikiArt(作品) |
エドゥアール・ヴュイヤール(1868年11月11日-1940年6月21日)はフランスの画家、版画家。ナビ派のメンバー。
モーリス・ドニ、ピエール・ボナールらとともにナビ派の1人に数えられる。ほかのナビ派の画家よりもさらに平面的、装飾的傾向が顕著である。
ボナールと同じく室内風景や日常生活など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト」(「親密派」という程度の意味)と称した。
晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾を担当している。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた。
重要ポイント
- ナビ派の創設メンバーの1人
- 装飾芸術でおもに活躍した
- 日本美術に影響を受けている
略歴
若齢期
ジャン・エドゥアール・ヴュイヤールはフランスのキュイゾーで生まれ、同地で少年時代を過ごした。1878年に一家はパリへ移る。ヴュイヤールの父は退役軍人で、母マリー・ヴュイヤールとは27歳も離れていた。
1884年に父が亡くなるとヴュイヤールは奨励金を受けて、学業を続けた。コンドルセ高校時代にヴュイヤールはケル・グザヴィエ・ルーセル、モーリス・ドニ、音楽家のピエール・ハーマン、劇作家のピエール・べバー、リュネ・ポーらと出会う。
1885年、ヴュイヤールはコンドルセ高校をやめる。親友のルーセルのアドバイスで、ヴュイヤールは兵役を拒否してディオジェーヌ・マイヤールの絵画教室に入る。そこで、ルーセルとヴュイヤールは絵画の基礎的な訓練を受けた。
1886年から1888年まで、ヴュイヤールはジュリアン・アカデミーで学ぶ。3度入学試験に失敗した後、1887年にエコール・デ・ボザールの入学試験に合格した。1888年から日記をつけ始める。
ナビ派とそれ以降
1890年にヴュイヤールはピエール・ボナールやポール・セリュジエと出会い、ポール・ゴーギャンの総合主義から影響を受け画学生を集めたナビ派を結成する。
バルク・バートバビル画廊でのナビ派のグループ展示に参加し、その後ナビ派の同僚であるボナールやドニらとアトリエを共有した。1890年代初頭、ヴュイヤールはリュニェ・ポーがディレクターをつとめる劇場「制作座」で仕事をした。
1898年、ヴュイヤールはヴィネツィアやフィレンツェへ旅行する。翌年にはロンドンへ旅し、その後、ミラン、ヴィネツィア、スペインへと旅した。またブルターニュやノルマンディーにも旅をしている。
ヴュイヤールは1901年のサロン・ド・アンデパンダンで作品を展示し、続いて1903年のサロン・ドートンヌで展示。
1890年代にヴュイヤールは、芸術家が協力した文芸雑誌『ラ・レヴューブランシュ』の編集者であるアレクサンドリア&タデー・ナターソン兄弟に出会い、ヴュイヤールがピエール・ボナール、ロートレック、フェリックス・ヴァロットンらとともに同誌に紹介される。
1892年、ナターソン兄弟のアドバイスで、デスマレーの家の装飾絵画を制作する。これを機に装飾絵画制作の仕事が増え、1894年にアレクサンドリア・ナターソン、1898年にクロード・アネット、1908年にバーンスタインらの家の装飾絵画を制作した。晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾、1939年にはジュネーブのパレ・デ・ナシオンの室内装飾を担当している。
ヴュイヤールの絵画や装飾作品では、おもにインテリア、通り、庭園などを主題にして描いていた。穏やかでユーモアにあふれ、青色が特徴の作品である。
ヴュイヤールは独身で60歳までドレスメーカーだった母親と暮らしていたこともあり、室内空間や家庭空間に非常に精通していた。彼の作品の多くは実家の影響を反映しており、おもに装飾的で、しばしば複雑なパターン模様を描いた。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた。
1940年7月21日、ヴュイヤールはラ・ボールで死去。